見出し画像

お念仏と読書#6「名前のすくい」

本屋さんで見つけて即買ってしまった絵本があります。竹下文子さん文 町田尚子さん絵『なまえのないねこ』です。
今回はこの絵本を読んで、浄土真宗における「名前のすくい」ということについて味わっていきたいと思います。宜しければお聴聞ください。

まずこの猫の瞳に引き込まれました。私はそもそも猫アレルギーだし、猫がそんなに好きというわけでもないのですが、猫好きな人にとってこの本は堪らないと思います。

また何よりも「なまえのないねこ」というタイトルが非常に興味深いです。単なる野良猫の話なのか、それとも名前がないこと自体に深い意味があるのか。
後者だったら良いなと思いました。なぜかというと、「名前」そのもの自体が浄土真宗において最重要キーワードであり、救いの要となるからです。

なんと、読んでみたら、この絵本後者でした!まさに「名前」による私のすくいが描かれていると味わいました。私自身読んでいてクライマックスで予期せず涙が出るほど感動しました。


まず、あらすじを書きます。
誰にも名前をつけてもらったことがない、一匹の野良猫が主人公です。

町に住む他の猫たちは皆、名前を持っています。

ライオンににている「レオ」。元気な「げんた」。
チビ。昔は小さかったのでしょうが、いっぱい餌をもらっているのか、今は見る影もありません。パン屋には「クララ」と「ハイジ」。

「いいな。ぼくも なまえ ほしいな」と野良猫は、お寺で飼われている猫「じゅげむ」に言います。
「じぶんで つければ いいじゃない」と、じゅげむに言われるのですが、どんなに自分で考えても、しっくりこないのです。

自分の名前を求めて彷徨う野良猫の心細さや不安が、町田尚子さんの絵によってリアルに伝わってくるので、ものすごく切ない気持ちになりました。

途中でこの野良猫は「きたないねこ」「へんなねこ」とよばれ、「こら!あっちいけ!しっしっ!」と追い払われたりします。でもそんなのは全然名前じゃないのです。

雨にも降られ散々な野良猫ですが、しかし、公園のベンチで雨宿りをしていると、思いがけない出あいがあります。

名のない猫は、名前そのものの意味に気づくのです。私自身、心が芯から温かくなるほどの気づきでした。さて、野良猫は自分の名前がつくのでしょうか?そしてその名は?ぜひ読んでみてください。おすすめです!!

名号による救い

名前とは、よび声なのだということ、そしてよんでくれる人がいるということが、この絵本を通してあらためて知らされたことです。

「なもあみだぶつ」とは何か?それは阿弥陀のお名前です。これを名号といいます。
名号とは、「生きとし生けるものを救わずにはおられない」という願いが成就されたものです。

名号の名という字、その字を分解すると、「夕」という漢字プラス「口」と書きますよね。
これは夕方になると暗くなり、周りが見えなくなるので、自ら口で「私はここにいますよ!」ということで気づかせる意味といわれます。
また、号という字は「号令」や「号泣」という熟語にもあり、大声で叫ぶという意味を持っています。岡山弁(井原市芳井町あたり)では「おらぶ」といいます(笑)
「あの人、おらびょーてじゃ!(叫んでいるよ!)何があったんじゃろう」という風に使います。相当大きい声なんだろうとを想像してしまいます。

つまり、「名号」とは、自分中心に何事も見てしまい、時に欲に目が眩み、時に怒りに目が眩み、あるがままに物事を見ることができない、まさに真っ暗闇「無明」の私に向けての、阿弥陀様からの「阿弥陀がここにいるぞ!」という名告り(なのり)でもあるのです。

阿弥陀様は、ご自身のお名前「南無阿弥陀仏」でもって、私をよんでくださっているのです。そのおよび声こそが私たちのお称えするお念仏なのだと親鸞聖人はお示しくださったのです。

最後に、ここで一つ疑問が思い浮かばれると思います。「仏様が私をよばれるのに、なぜ私の名前をよばれないのか?」という疑問です。相手をよぶときは、その人の名前をよぶのが当然です。
浄土真宗の勧学、村上速水和上が『道をたずねて』という法話集に以下のようなエピソードを載せておられました。K先生から伺った話だそうです。

阿弥陀仏は衆生を呼ばれるのに、なぜ「なむあみだぶつ」と御自分の名をもってよばれるのであろうか。これは私の長い間の疑問であった。しかしその疑問が解決されるときが来た。それは子供の死という、私にとってはたえがたい悲しい事件を縁としてであった。あるとき私の子供の一人が病気にかかった。病気はジフテリアであった。私たちは急いで病院に入院させたが、そのときはすでに手遅れという医師の宣告であった。でも私たちは一縷の望みをかけ、万に一つの奇跡をねがって、子供の名前を呼びつづけ励ましていた。しかし、やがて、ふと気づいた時には、もう子供の目は動かず、耳も聞こえない風であった。そのとき私は思わず「父ちゃんだよ」と叫んだ。父親の私が「父ちゃんだよ」と叫んで子供を呼んでいたのだった。やがて子供は死んでいったけれども、そのとき私は、仏が仏自身の名をもって私たちをよんでいてくださる思召しがうけとられたのでした。


阿弥陀様にとっては自分と他人の分別はなく、私達ひとりひとりの命は決して他人事とは見られないのです。ですから阿弥陀様は、ご自身の名前で名告りをあげずにはおられなかったです。
「南無阿弥陀仏だぞ!お前を離れない私が、ここにおるぞ!安心しろよ!心配するな!私がここにいるから!!」と私と決して離れず、常によびつづけてくださるから、私の救いになるのです。

最後までお読みくださり、有難うございました。南無阿弥陀仏。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?