謙遜と自己防衛

 謙遜というものは往々にして美徳であると言われる。しかしながら自らを卑下し過ぎてしまうのは、時に相手を挑発する行為になり得てしまう。前に出過ぎず、後ろに下がり過ぎずというバランスを上手く保つことが大切なのである。
 という当たり前のことを書いてみたはいいものの、言うは易く行うは難しである。完璧に実践出来ている人間など、おそらく世の中にはいないだろう。しかしながら、他人のことを全て理解することは不可能なことであり、ある程度の割り切りというのも必要である。
 さて、ここまでが意識的に謙遜をする人間が心掛けるべきことである。一方で本当に自分には能力がないと考え、発言や行動を取る人物もいる。

 全国模試で一位を取ったAが、自分なんてまだまだ、と言うのは本人の意思に関わらず謙遜である。一方、平均以下の成績のBが、自分なんてまだまだ、と言うのは別に謙遜でも何でもない。こと勉強においては、後者の人間は事実まだまだなのである。
 では、十位の人間はどうだろうか?
 何千人、何万人規模の模試であると仮定すれば、十番目の成績というのは悪くないように思える。だが、前回一位だったAが今回十位になったということであれば、謙虚さが足りていないという指摘を受けてもおかしくはなく、自分なんてまだまだ、と言っても謙遜ではないかもしれない。
 しかし、前回の成績を全く知らないCにこの十位になったAが、自分なんてまだまだ、と発言をすれば、場合によっては相手を不快にさせるかもしれない。特に、AがCよりも良い成績だった時には、嫌味に取られてしまう可能性がある。

 こうして例題を見てみると、謙遜というのは実に面倒な代物である。しかし、謙遜というのはコミュニケーションにおける戦略の一つであり、相手と円滑にコミュニケーションを取りたい、良好な関係を築きたいと考えるのならば、避けて通ることは難しい。謙遜の使い分けを面倒と思うか、尊大な態度によってもたらされる相手からの冷ややかな視線を避けたいと思うか。これは個人の価値観による所であるが、後者を避けたいのであれば、謙遜の出し入れは重要となる。

 ここまでは前置きである。童貞研究家を自認する私としては、この謙遜というものが童貞にとっていかに扱いにくいものであるかを解説していきたい。

 先程の模試の例題のような、順位や数字という定量的データに基づいている場合は、謙遜の出し入れというのも比較的難しくはない。しかし実際の所、定量的な意見よりも定性的な意見に対して謙遜をするケースが多い。
 「かっこいいですね。」
 もし万が一、このような言葉が童貞に投げかけられた場合、童貞はまず心の中でこう思う。
 『そんな訳ないだろ。本当にかっこいいならなんで俺は今も童貞なんだよ!てかそんなこと言うなら責任取って・・・』
 これ以上は割愛するが、いくら本心から童貞を褒めた所で、童貞という全てを打ち消すジョーカーを所有している以上、相手の言葉を自分の自信に繋げることは童貞にとって不可能に近い。
 確かに、面と向かってかっこいいなどという言葉を言われて、お世辞ではなく本気で捉える人間は、童貞かそうでないかに関わらず少ないかもしれない。しかし、もっと言いやすい褒め言葉、話すのが上手、気が利く、優しい等々・・・どんなに童貞を褒めた所で、期待しないことで自らを守っている童貞にはその言葉は届かない。

 しかしこれら童貞自己防衛術と謙遜は、外側だけを見ると通ずる面がある。相手は本心から褒めているというのに、童貞が自分を守るためにその褒め言葉を無下にし続ければ、相手は過度な謙遜をしていると受け取り、たまには素直に受け取って欲しいとフラストレーションを溜める可能性がある。童貞としてはこれ以上傷つきたくないからと自分の身を守っているだけであっても、結果的に相手の鼻につき、更なる童貞の孤立化を招くことになる。

 童貞に、謙遜の出し入れをする余裕はない。それだけ、他人に愛された経験がないというのは、相手の性別に関係なく、コミュニケーションをする上での障害となり、それが更なる悪循環を招く恐れがある。過度な謙遜か、童貞の自己防衛術か。見分けることはほぼ不可能ではあるものの、もし童貞の自己防衛術であることがわかった場合には、自らを卑下する童貞を優しい目で見守ってあげて欲しい。
 
 
 

 

 
 
 

 


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