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堀辰雄と角川書店の成立

「風立ちぬ」や「菜穂子」で知られる小説家の堀辰雄(1904-1953)は、創業期の角川書店に多大な援助をし、同書店が文芸出版社として認知される礎を築くための理念と人脈を提供していた。

角川書店の創業者角川源義と堀辰雄の最初の接点ははっきりしないが、角川源義が師事していた折口信夫を介して知り合ったのではないかと推察される。1945年11月、角川源義は出版社の創業とほぼ同時に堀辰雄と文通を始め、自身が創業した出版社の方向性について相談している。角川書店は当初「飛鳥書院」として出発する目論見だった。だが角川源義はこれを決める前に堀辰雄に相談して、出版社の「名付親」になってもらおうとするほどの信頼を示している。

書肆の名は、いささかクラシックかと思ひますが、「飛鳥書院」といふ名を用ゐてみようと思ひます。いかがでせうか。すばらしい名––私たちの文藝の理念が現はれてゐるやうなもの––がほしいのですが、名付親になつて頂けたら、……どんなに嬉しいことでせう。また顧問となつて頂けたら……御葉書を頂いて、たゞゝゝ夢中になつてゐるのです。……
「リルケ」と「テーヌ」の全集を出したいと思ひますが、御意見承りたく存じます。メリメも新版をおこす必要があるかと思ひますけれど。
 だが矢張り「堀辰雄全集」を出したい念が先きなのです。昨夜も友人から笑はれました。君は堀さんのばかり出してゐたいんだらうつて……全くさうなんですから辯解のすべもありません。
 〔……〕
 何分これからは御援助を願ふことばかりだと存じます。私の文學の理想とするところは、矢張「風立ちぬ」「菜穂子」の作者にあつて、下品な卑屈な小説を賣り出す作家の作品はいくら賣れても出したくないのです。もうけるためでなく、私の文學の理念を受け入れる書肆がないばかりに興した仕事なのですから。
(角川源義、1945年11月19日(年月推定)堀辰雄宛書簡)


相談を受けた堀辰雄は、信濃追分から東京の角川源義に向けて懇切丁寧な助言を書き送っている。出版社の名前について、

「飛鳥書院」といふのも結構ですが、書院はどうもいかめし過ぎはしませんか。書林くらいのところがいいのではないでせうか。いそがないのでしたら、もつと考えてみませう。
(堀辰雄、1945年11月21日角川源義宛書簡)

と答えている。今後出版すべきものについて、リルケやフランスの作家の名を挙げて回答するほか、昭和期の詩人の選集や、明治の詩人の定本も出してもらいたいとリクエストしている。さらには、12月になったら信濃追分まで直接相談に来るように角川へ勧め、「宿屋は休業故、僕のうちでお宿をします」(同書簡)というほどの親切さであった。
その後、新しい書肆から刊行を目指している雑誌の名前について、角川源義が別の書簡で堀辰雄に相談し、顧問への就任を改めて要請したようだが、この書簡は残っていない。堀辰雄からの回答は残っている。

〔……〕雑誌の名は「高原」ぐらゐのところが矢張り好いでせう なるべく何んでもないやうな名にしておいた方があとできつと好くなります 顧問なんといふ四角ばつたものは止して、みんな一しよに同人としてやつて行きませう(これはぜひさうして貰はなければ、僕はいやです)
(堀辰雄、1945年12月7日角川源義宛書簡)

この雑誌は結局「飛鳥」となったようだ。

「飛鳥」はできれば、年に一册ぐらゐの立派な大册にし、僕と神西君の編輯で、一つの文學運動を起こさしめる底のものにしたい、などと考へてゐる。
(堀辰雄、1946年5月25日小山正孝宛書簡)

「神西君」とは、作家あるいはロシア文学の紹介者として知られる神西清のことで、堀辰雄とは長年の友人であった。角川書店、あるいは飛鳥書院の仕事を引き受けることで、堀辰雄は戦後の文学運動を先導しようとする意思を示していた。また「飛鳥」の刊行と同時に、「角川君とはじめて逢つて、『四季』の話がでたとき、急に再刊の決心をした」(同書簡)。実際に堀辰雄は「四季」のかつての同人たちに連絡を取り、執筆の承諾を取りつけている。さらには、「飛鳥新書」というシリーズの企画にも関与していた。

これは餘談だが、「飛鳥新書」といふのはまあ創元選書のやうなもので、もうすこし堀辰雄的なもの(これは角川君の言葉)にしたい。
(同書簡)

このように、角川源義のために堀辰雄は大量の仕事を引き受けていた。彼が戦前に他の出版社から本を出し、戦時中も関係者とやりとりを続けていたことを考えると、まだ出版業績もほとんどない新興出版社に対して、異例とも見える厚遇ぶりを示している。その書簡からは、一つの出版社を「堀辰雄的なもの」で染め上げる仕事に一定の魅力を感じていた様子がうかがわれる。

戦時中から信濃追分で療養生活を送っていた堀辰雄が出版活動の方針について意見を述べ、関係者との調整を行う一方で、神西清は鎌倉から「飛鳥」や「飛鳥新書」の編集実務に携わっていたようだ。1946年6月5日の堀辰雄宛書簡で神西清は「飛鳥新書」の刊行予定書目を書き送り、「これで書店の經濟を立ててゆく」目論見を述べている。1947年2月28日の書簡では、「季刊飛鳥の編輯方針につき其后二囘ほど一同會合」と述べ、第1号の内容について堀辰雄の意見を求めている。
終戦直後から角川源義とあたかも一蓮托生で活動を本格的に再開しようとする堀辰雄にたいして、友人あるいは弟子筋の人々から疑問の声が上がるまでに長くはかからなかった。
堀辰雄作品の著作権をあたかも独占しようとする角川源義の行動に対して、神西清は繰り返し批判的な調子で堀辰雄に忠告を織り交ぜた報告を送っている。昭和24(1949)年に早川書房から刊行された堀辰雄の『牧歌』と思われる「エッセイ集」について、「歸つてみたら角川君から「認可取消」の通知が來てゐて、些かフンガイしました」(神西清、1948年9月26日堀辰雄宛書簡)と述べている。この出来事をきっかけに、神西清は角川源義の批判を展開する。

角川君のこと、何も今度の横槍を根に持つわけでは決してないが、どうも相變わらず獨善が過ぎて困ると思ふ。文壇や業界の評判もひどく惡いやうだ。
〔……〕
實は先日も君の意見を聞きたいと思ひながら、つい遠慮してしまつたのだが、かうなると(よしんば君の熱が二三分あがる惧れはあるにしても)思ひ切つて言はずにはゐられない。君は一體、今度の君の作品集七卷を角川から出させるについて、君の作品の出版權を彼に永遠に一任したつもりなのかい。まさかさうではないと思ふ。あの上梓のことが決定するとき、「角川と心中するか」と君が言つたと、角川は今度の手紙にも書いて來てゐるが、それを言つた時の君の表情も氣持も、僕にはよく分るやうな氣がする。ところが角川君といふ好人物には、さうしたニュアンスが一切分らないのだ。分らない振りをするんぢやない。本當に分らないのだ。そこで彼の獨り合點が枝葉を拡げる可能性が十分にあるのだ。
〔……〕
加藤俊彦さん〔堀辰雄の義弟〕なり又は僕なりを通じて、版權の問題について或程度はつきりした申入れを角川まで提出して置かないと、将來永く禍根を殘すことになりはしまいかと僕は惧れるのだ。
(同書簡)

当時、東京に近かった神西清を介して各出版社から堀作品の出版依頼が入り続けていたこと、療養生活が長引いていた友人堀辰雄の経済状態を心配し、版権の収入源を多様化させようとしたこと、などの事情は推察の域にとどまるが、神西清は堀辰雄の代理人として堀作品の出版交渉へ介入していく。昭和25(1950)年、新潮社から堀辰雄作品集の出版申出があった際には、角川源義を制してこの案件を進めるべく、交渉の矢面に立つ。上野で角川源義と会った際、以下の3点を「基礎として攻防の道具立てをし」て説得にあたったという。

A、新潮社の申出には河盛〔好蔵〕氏の口添へもあるらしく、君〔堀辰雄〕としては無下に断わりにくいらしいこと、
B、僕としても、新潮社から選集が大々的に出ることは戰後の未知の讀者層に君の名が普及するわけだから、角川版作品集の賣行にプラスにこそなれ、決してマイナスにはならぬと確信する、從つて雙方の立場を考量して、反對する理由を發見することが出來ない、つまり贊成の立場をとる、そしてそれに對しては僕としての責任を勿論囘避はしない、
C、それから僕の見る所では(勿論これは想像論であつて、當否は一切僕の責任であるが)君自身の氣持もBに述べたことと一體同じらしく察せられる。この際それを押して角川の版權とかなんとかいふ理屈(?)を言ひ立てることは、決して角川の大をなす所以ではあるまい、
(神西清、1950年3月22日堀辰雄宛書簡)

角川版と新潮社版の堀辰雄作品集が同時期に市中に出回る状態について、堀辰雄と角川源義の間で角が立たぬように、神西清は対応策も提案している。


いづれにせよ頗る察しの惡い男のことだから、そのうち漠然と君の意中などを探りに彼出かけるかも知れない、そんな氣配も見えた、そしてその時、角川版の作品集の今後の處置如何などといふ野暮な話を、ひよつとして言ひ出さないでもあるまい、もしそんなことがあつたら、右の三要點をお含みの上、できるだけ僕の獨断といふことを、(あまり不自然にならぬ限り)利用してくれて差支へない、それが一等無難な解決策なのだから、
 尚、編輯(内容の選定)に關しては、一切新潮社の編輯部のイニシアチーブで、これを君が單に承認した、といふ事にして置いてくれ給へ、そこまで僕が介入したとなると、ちょいと後の工作がやりにくくなる、解説を僕が引受けることも、やはり新潮社の希望やむを得ず、といふ恰好にしておきたい〔……〕
 (同書簡)


堀辰雄に私淑していた詩人の野村英夫は、立原道造の詩集を角川書店から出版するにあたって原稿を角川書店に届ける(野村英夫、1946年4月22日堀辰雄宛書簡)他、雑誌「四季」の復刊にあたっても原稿執筆依頼を諸方に出す等している。「四季」を復刊するため、野村英夫は新しい「出版所」にあたりをつけていたが(野村英夫、1945年12月堀辰雄宛書簡)、堀辰雄は「もう疲れた感じのする「四季」ではなく新しい名前のでもつて、やつていつて貰ひたいのだ」(堀辰雄、1945年12月17日野村英夫宛書簡)と答えて、新しい文芸誌を立ち上げるよう促している。その一方で、角川書店から「四季」を彼自身の編集で復活させることを承知している。この処置に違和感を持ったらしい野村英夫は、懸念めいた返事を堀辰雄に送っている。

〔……〕四季が角川書店で少し上手くゆきません由、日塔〔聰〕君と小山〔正孝〕君から話しを聞きましたが僕の考へでは角川書店が四季再刊を引き受けたり四季叢書を出したりしますことは四季が既にちやんとした地盤を持つておりますため世間から角川書店が四季の地盤を分けて貰つて商賣を始めたと思はれる怖れがありそれでは角川書店が困ると云ふ點と、四季編輯部が角川書店編輯部から全く獨立してゐると云ふ點 又角川書店編輯部の中で四季の或る人達に對する反發があり 又一つには詩雑誌も大分出ましたので角川氏の熱も覚め賣れゆきのことも氣になるのではないかと思はれますし又日塔君の立場がはつきりしないと云ふことも多少あるかも知れないと思はれます
(野村英夫、1946年5月14日堀辰雄宛書簡)


「四季」には既に確立されたブランドがあり、角川書店に承継されると不整合を生じうること、角川書店編集部と「四季」編集部との相性、販売部数の問題、それぞれの論点について、堀辰雄は正面から野村英夫に答えることなく、当面は彼自身の個人編集で「四季」を出す方が「一番スムースに行きさうだから引受ける事にした」「まあ當分僕に任しておいてくれたまへ 君たちの若い力が本當に内から盛り上がつてくるのを見届けたら、いつでも身をひくつもりだ さういふ日が一日も早いことを希望する」(堀辰雄、1946年6月2日野村英夫宛書簡)と返事した。この背景には、詩の雑誌である「四季」が戦後に果たすべき役割について、堀辰雄自身の信念があった。

〔……〕これは編輯者の一つの抱負として考へてゐることだが、詩の雑誌は、歌や俳句の雑誌のやうであつてはいけない。あゝいふ日本獨自のものでないところに、詩のもつ弱みもあり、又、強みもある。むしろ、これからはその歌や俳句にない強みを生かしてゆかなければならない。––日本だけのものでなしに、世界の文學とおなじものを糧にして生きてゆかなければならない。––これは僕の詩に對する持論だが、かういふ僕の氣もちがおのづから編輯の上にも出てゆくやうにしたいのだ。
(堀辰雄、1946年5月25日小山正孝宛書簡)

ヨーロッパ文学に通暁していた堀辰雄は、「世界の文學」である詩と、和歌や俳句の違いを認識した上で、日本の詩にそれまで欠けてきたものを感じ取っていた。比較のさい、念頭にあった詩人はリルケであり、ボードレール、ランボー、ヴァレリー、あるいはジャム、シュペルヴィエルといったフランスの詩人であったかもしれない。戦後の日本から、「世界の文學」を摂取したうえで詩の「強み」を備えた詩が出てきて欲しい。そのような課題を、彼一個人の問題意識としてではなく、日本で詩を書く人々に共有して欲しいという願いを持って堀辰雄は「四季」の編集を引き受けたのではなかっただろうか。
理想は大きかった「四季」の刊行は、商業的には難しい事業だったようだ。終戦直後の物資が乏しい状況下で最上質のコットン紙を使い、32頁を予定していた復刊第1号は結果的に48頁に増え、一雑誌並の原稿料を執筆者に渡すことを約束していたため、利益を出すことはおろか、制作費を回収するのがやっとであった(堀辰雄、1946年5月25日小山正孝宛書簡)。昭和21(1946)年8月に復活した「四季」は、翌年の12月に第5号を出して途絶える(『堀辰雄全集第八巻解題』)。

その後角川書店は角川文庫を刊行開始(1949年)、『昭和文学全集』(1952-1955年)の刊行により文芸出版社としての地位を確立していく。昭和25(1950)年、『堀辰雄作品集』は毎日出版文化賞を受賞する。昭和38(1963)年、新たに決定版としての『堀辰雄全集』をするにあたって、角川源義は「刊行のことば」を寄せている。

角川書店の歴史をかえりみると、その第一期は堀辰雄作品集の刊行がすべてであった。創立十九年に及んで、決定版堀辰雄全集を上梓するに到った経緯を思うと、私は甚だ感慨の深きものを覚えるわけである。

この「感慨」は誇張ではなく、角川書店の創業期には、堀辰雄の理念と作品の投入が事業の方向を決めていたことを、残された書簡類は示唆している。

引用文献:
『堀辰雄全集第八巻』筑摩書房、1978年
『堀辰雄全集別巻一』筑摩書房、1979年
『堀辰雄全集別巻二』筑摩書房、1980年


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