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堀辰雄と角川書店の成立

「風立ちぬ」や「菜穂子」で知られる小説家の堀辰雄(1904-1953)は、創業期の角川書店に多大な援助をし、同書店が文芸出版社として認知される礎を築くための理念と人脈を提供していた。 角川書店の創業者角川源義と堀辰雄の最初の接点ははっきりしないが、角川源義が師事していた折口信夫を介して知り合ったのではないかと推察される。1945年11月、角川源義は出版社の創業とほぼ同時に堀辰雄と文通を始め、自身が創業した出版社の方向性について相談している。角川書店は当初「飛鳥書院」として出

    • 戦時中の堀辰雄

      堀辰雄といえば、1920年代から30年代くらいに優雅な暮らしをしていた人たちのことを書いた戦前の小説家だ、ぐらいに思っていたが、実際に亡くなったのは戦後の1953年だった。では戦争中から終戦直後にかけてはどのような活動をしていたのだろうか。 国文学の研究論文を調べればそういうことはどこかに書いてあるのかもしれないが、今回は『堀辰雄全集』を読んで知ったことだけここに書き残しておくことにした。 結論から言えば、戦中、戦後の堀辰雄は健康状態の悪化のため、思うような小説執筆はかなわな

      • 堀辰雄と嘉村礒多

        1933年に嘉村礒多が亡くなった翌年に刊行された『嘉村礒多全集』の付録に、堀辰雄が「嘉村さん」という一文を寄せている。 「嘉村礒多さんとは三遍ばかりお會ひしました」 嘉村礒多が亡くなった年の4月に、南榎町の仮寓先を訪ねて行ったところ、「寝巻のまんま、玄関まで飛び出して」きた後、普段着に着替えて出てきて元気そうに見えたので、ついそのまま長居をしてしまったと書いている。 私小説を書いていた嘉村礒多は、堀辰雄の小説について、「あれは事實のままではありませんか?」と問いかけてい

        • 堀辰雄の「西洋人」

          堀辰雄といえば軽井沢、軽井沢といえば別荘。特に昭和初期の軽井沢には諸国の要人の別荘が立ち並び、国際的な雰囲気にあふれている描写が彼の文学の中には頻繁に出てくる。 またこの作家は初期の頃にはコクトーやラディゲに傾倒し、後年にはプルーストやリルケに関する文章を書きまくっていたくらいヨーロッパの文学に対する造詣と憧れは深かった。 1938年6月、軽井沢の愛宕の山荘に籠もっていた堀辰雄を文筆家の片山廣子が尋ねた折、 フランスの新聞をこまかく裂きて堀辰雄暖爐の火をもす という句を作

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