戦時中の堀辰雄

堀辰雄といえば、1920年代から30年代くらいに優雅な暮らしをしていた人たちのことを書いた戦前の小説家だ、ぐらいに思っていたが、実際に亡くなったのは戦後の1953年だった。では戦争中から終戦直後にかけてはどのような活動をしていたのだろうか。
国文学の研究論文を調べればそういうことはどこかに書いてあるのかもしれないが、今回は『堀辰雄全集』を読んで知ったことだけここに書き残しておくことにした。
結論から言えば、戦中、戦後の堀辰雄は健康状態の悪化のため、思うような小説執筆はかなわなかったが、軍国主義に与することなく、病床から戦後文学の復興に寄与し、親しい人たちのことを気にかけながら亡くなったようだった。

筑摩書房版『堀辰雄全集別巻二』に所収の年表を参考にしながら、1941年から終戦までの堀辰雄の動向を確認してみる。

昭和16(1941)年は「物語の女」の続編にあたる「菜穂子」を発表した後、奈良や京都に赴き、新しい小説の構想を練っていた(が白鳳時代辺りに主題を求めた小説は断念したらしい)。
昭和17(1942)年には、親交があった萩原朔太郎の死をうけて『萩原朔太郎全集』の編集委員となり、編集作業に参加している。またプルーストの手法に触発されるかたちで自己の幼年時代を描いた『幼年時代』を刊行している。
敗戦色が濃厚になる頃には、健康が再び衰え始める。昭和19(1944)年には「疎開のために家を捜しに信濃追分に行き、帰京後喀血が続く。五月まで絶対安静、一時重態となる。六月、軽井沢に移る」(年表)。これ以降、昭和28(1953)年5月に亡くなるまで療養と読書の日々が続く。


こちらにゐると、東京などの様子殆ど分からず、ただもう「何物か」にすべて任せた氣もちで、糞おちつきに本ばかり讀んでゐます
(1944年9月9日、川端康成宛書簡)


小康を得たときには「小説らしい小説」(1944年7月26日、中市弘宛書簡)、「ひとつ好いライフ・ワアク」(1944年8月29日、神西清宛書簡)を書く意欲を示していた。終戦間際にも、「小説のはうはなかなか見當がつきません 一そ支那の古い物語でも考えてみようか知らん」(1945年8月13日、川端康成宛書簡)と述べていた。終戦直後から多数の執筆依頼があったことを堀辰雄自身の書簡が示唆しているが、実際には再び病臥生活に入り、随筆や跋文などの小品を除いては作品を発表することはかなわなかった。


堀辰雄の著作年譜を見るかぎりでは、終戦までの2年間は、ほぼ著作を発表していない。このため経済的な問題が生じたのか、昭和20(1945)年に入ると、旧作の再刊と文庫化にあたり印税の前借りを繰り返し打診している(1945年2月21日、同3月3日、丸山泰治宛書簡、同3月3日、中市弘、矢倉年宛書簡)。
経済的に厳しそうな状況をうかがわせる記述があっても、堀辰雄が戦時下の軍国主義に迎合した内容の著作を発表して糊口をしのごうとした形跡はまったく見られない。以下に掲げる河盛好蔵の証言は、堀辰雄が翼賛体制と意図的に距離をとっていたことを示唆している。

(……)そのころ私は日本出版会の学芸部長という大それた役目についていた。そのために軍の報道部や情報局の下っ端の役人と接する機会が多く、したがって、どんな文学者がその筋にごまをすりまたその筋の覚えがめでたいか。またどんな文学者がその筋から憎まれ、にらまれているか、ということをよく知っていた。
(……)
そんなある日のこと、文学者もまた戦争に協力すべきかどうかということが話題になり文学者がなにかにつけて情報局あたりで邪魔ものあつかいされていることをよく知っている私は、保身の術からも、時としては国策に協力した作品を書く必要があるのではないかということを口にした。すると堀君は言下に、もの静かではあるが断乎とした調子で、そんなことは、到底自分にはできないと云った。私はそれを聞いて自分を深く恥じた。堀君は終戦後、自分は戦争中は大いに抵抗したというようなことを少しも書かなかったが当時私の知っていたどの文学者よりも立派であったことを遅まきながら書いておきたい。
(河盛好蔵「二つの思い出」『堀辰雄全集 別巻二』所収)


戦争が終わると、「これから急に蔓延しさうな惡思想のなかで古い靜かな日本の美しさを守つて行きたい氣持ちで一ぱいです」(1945年10月26日、折口信夫宛書簡)と述べて一定の活動に意欲を示すものの、健康状態が執筆を許さない。戦後の堀辰雄は、自らがライフワークと定めたような小説を書くことはできなかったが、病床から雑誌「四季」の復活に関わり、角川書店の成立に力を貸すなど、戦後文学の復興に大きな役割を果たした。


出典:
『堀辰雄全集第八巻』筑摩書房、1978年
『堀辰雄全集別巻二』筑摩書房、1980年


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