堀辰雄の「西洋人」

堀辰雄といえば軽井沢、軽井沢といえば別荘。特に昭和初期の軽井沢には諸国の要人の別荘が立ち並び、国際的な雰囲気にあふれている描写が彼の文学の中には頻繁に出てくる。
またこの作家は初期の頃にはコクトーやラディゲに傾倒し、後年にはプルーストやリルケに関する文章を書きまくっていたくらいヨーロッパの文学に対する造詣と憧れは深かった。
1938年6月、軽井沢の愛宕の山荘に籠もっていた堀辰雄を文筆家の片山廣子が尋ねた折、

フランスの新聞をこまかく裂きて堀辰雄暖爐の火をもす

という句を作った。書かれた本人もこの句がいたく気に入ったようで、自分の随筆へ繰り返し引用している。
フランスをはじめとするヨーロッパの文化に日頃から浸っている作家の一側面に光を当てた秀句、ということだろうか。

で、彼の全集を読んでいて、どれくらいヨーロッパの文化人と実際に交流していたかというと、そういうことは全くなかったようだ。
堀辰雄が描く「西洋人」へのまなざしは、あくまでも外部の日本人からのまなざしであって、日本に居た「西洋人」と彼が人格的な交流を持った痕跡は全く見られない。
ほとんど唯一、彼が軽井沢の「西洋人」と実際に話す場面が「夏の手紙」という随筆に出てくる。「少し被害妄想狂の、しかし好人物らしいシュテンベルク氏」と路上ですれ違いざま、彼の連れている「茶色の犬が頭に小さな怪我をしてゐるのを見つけて、思はず心持ち身をこごめながらその頭へ手をやって、「怪我をしてゐますね?」と相手の顔を見上げながら、その言葉が通じようが通じまいが、構はず口をきいた。はじめて口をきいたのである。」(堀辰雄全集第四巻所収「夏の手紙」)
これだけである。
個人としての堀辰雄氏は別にコミュ障だったわけではなく、芥川龍之介に私淑したのをはじめとし、非常に多数の同時代の文学者と交流を持ち、あたたかい心遣いのこもったやりとりをしている。
ただ、「西洋人」に関しては、外部から眺め、憧れのような視線を注ぐ対象であったようだ。彼は英語もフランス語もドイツ語もある程度できたが、いずれもできなかった萩原朔太郎と同様、西洋の人間、文物に対しては、憧れパラダイムにとどまっているように見える。これはこの時代の人たちの特質と片付けてよいものだろうか、あるいは病弱だったこの人が「洋行」を果たす機会がなく、日本にとどまったまま生涯を終えたことにあるのだろうか。
この直接的交流の欠如が堀辰雄作品の価値を些かも減じるものではないにせよ、「西洋人」への徹底した外部からの視線は、現代の自分から見るといささか奇妙な感じを起こさせることがある。ということを書き留めて置きたかったためにこのようなものを長ったらしく書いた。

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