『 阿弥陀堂だより 』から見つける小説、文章を書く秘伝。
『 阿弥陀堂だより 』は、小説や文章を書けずに困っている人が読むのに最適な小説です。
小説や文章を書けるようになるヒントが、小説のあちらこちらに宝のように散りばめられています。
『 阿弥陀堂だより 』を書いた作家南木佳士さんは、芥川賞を受賞したあと、しばらく小説を書けずに苦しみました。
『 阿弥陀堂だより 』の登場人物の主人公のひとりは、南木佳士さん自身を投影しているように感じました。
作者を投影したであろう登場人物は、作中で小説を書きあげていません。
けれども、登場人物の分身である南木佳士さんは、スランプから脱出し『 阿弥陀堂だより 』を書きあげました。
『 阿弥陀堂だより 』は、極上にやさしい物語です。
読んだあと心にしみじみと温かい灯りがともります。
現状から逃げだしたい人、病にくるしめられている人、何か変化をおこしたいと考えている人に、柔らかい紙で作った飛行機で生きるための重要なメッセージを伝えてくれる、そのような小説です。
ただし、現状から逃げだすには、お金や技術、地元が必要だという残酷なメッセージもふくまれてはいます。
『 阿弥陀堂だより 』の物語は平坦でなく、ところどころに才能の壁や障害、病、死などの緊張感をもたせ、物語の結末まで一気呵成に読まざるをえない構成です。
緊張感や障害をこえた物語の先には、登場人物みなが自然な笑顔で笑っているセピア色の写真が阿弥陀堂に飾られている、そのようなほのぼのと幸せな世界が広がっているように感じました。
以上のことから、『 阿弥陀堂だより 』は、小説や文章を書けずに苦しんでいる人だけでなく、現状に満足できない、苦しんでいる人たちにもオススメの小説です。
さて、本題の小説や文章を書けない人たちが読むべきだと書いた理由を説明させてもらいます。
小説や文章を書くうえで一番たいせつなことを教えてくれます、『 阿弥陀堂だより 』は。
それは、「書きたいことを書け」
丸谷才一の『 文章読本 』の最後にも書きたいことを見つけてはじめて筆をとれ、と書かれています。
たしかに、そのとおりダと思います。
このnoteが、力強く言葉が流れているかどうかは。
人間はイイワケの名人です。
書くべきことがないので書きません、と私は考えてしまう、いや、間違いなくそのように考えてしまう
そのように考えだすと、小説や文章を書くことからドンドンズンドコと遠ざかってしまう。
小説や文章を書くことから遠ざからないためには、どうすればよいのか、その答えが、『 阿弥陀堂だより 』に書かれています。
小説を書けずに苦しんだ文豪であり釣り師でありグルマンでもあった開高健に、文豪たちに愛される『 山椒魚 』を書いた井伏鱒二がアドバイスを送ったと作中に書かれています、そのアドバイスは。
とりあえず毎日文章を書きなさい。
あれ、書きたいものがあってはじめて筆をとれと書いたじゃんと思いましたよね、私も思いました。
毎日文章を書くことはトレーニングの一環なのです。
開高健はエッセイでこのように書いています。
試合がなくてもボクサーがトレーニングするように、ランナーが毎日ランニングをするように、小説家も毎日文章を書かなければ技術がにぶると。
書きたいもの=試合や本番。そのようなイメージだと考えました。
つまり、日常的に文章を書き、文章の技術を磨きあげ、いざ、書きたいものを見つけたときに、日常で鍛えた文章の技術にて渾身の文章を書きあげるのです。
日常的に文章を書くのは文章の技術を磨きあげるためだと考えました。
では、どのように文章を磨きあげればよいのか、という問題が浮かびあがりますよね。
その答えは、文章の師匠、お手本をもつ。
たとえば、内田百閒が夏目漱石に、檀一雄が佐藤春夫に師事したように。
檀一夫はあとで登場します。記憶の片隅にとどめておいてください。
芸の世界では師匠制度がのこっています。けれども、文章の世界で師匠制度は、ほぼ消えているように思います。
直接師事できないのなら、間接的にあこがれた作家に教えをこうしかありません。
太宰治が芥川龍之介にあこがれたように、西村賢太を猛烈に藤沢清造を尊敬し没後弟子と自称し、さらには藤沢清造の墓の位置をずらしその横の墓に眠っているように。
南木佳士さんは、開高健を文章の師匠と思っていたと書いているそうです。
そのようにエッセイに書いているそうですが、未読です。
余談になりますが、角田光代さんも開高健の影響をうけたと『 最後の晩餐 』の解説に書きしるしています。
『 阿弥陀堂だより 』には、開高健の名がたびたび登場します。
物語の感動的な場面にも、やや強引に開高健の名前が登場します。
物語の流れてきに強引じゃないと思いました。
なにかしらの効果があるのだろうかと考えた結果。
おれの文章の師匠である開高健は、すごいのだぞ、と主張したいのかなと考えました。
自分にも厳しく、他人にも厳しく、孤独な旅人のように一言一句をもとめ彷徨い歩いた開高健のような作家がいまの世にいるか。
ぬるい批評でごまかさず、ズバズバと大声で意見を言い、時には厳しすぎると言われた批評をする作家が、いまの世にいるか、と訴えかけてくるようです。
南木佳士さんを投影しているであろう登場人物は、ぬるい批評ばかりのいまの批評を読まなくなったと作中で語っています。
師匠の宣伝だけでなく、小説や文章を書けずに苦しんでいる人たちよ、文章の師匠を心の中にもてというメッセージがこめられているように感じました。
心の師匠の小説やエッセイを読み、小説や文章にたいする態度を学び、小説や文章を分析し技術を習得し、ときには、師匠が影響をうけた作家の本を読みあさり、小説や文章の技術や秘伝(秘伝はいいすぎかね)を学び身につけ、書きたいものを見つけたときに、師匠から学びとった技術を駆使し小説や文章を書きあげる。
小説や文章を書けないと苦しんでいる皆々様、好きな作家、好きな文章を書く作家さんの小説やエッセイを熟読してみると、スランプを克服するアイディアが書かれているかもしれません。
話変わって、職人や料理人の世界には守破離という言葉があります。
守り、破り、離れる。
はじめのうちは師匠の教えを守り、愚直に淡々と師匠のいいつけを守り、己の技術を高める。
これだけでは、師匠を超えられません。
師匠を超える気がないのであれば、守るだけでもよいでしょう。
『 阿弥陀堂だより 』を書いた作者は師匠を超えようと試み、試行錯誤し、七転八倒したのち、師匠・開高健から離れた文体を見つけました。
開高健から離れよう、破ろうとした決意は、作中にシンボルとして現れます。
作家志望の登場人物は、すべてではないでしょうが南木佳士さん自身の意識を投影していると書かせてもらいました。
作家志望の登場人物の万年筆はペリカンです。開高健はモンブランを愛用していました。
ペリカンとモンブランは海外万年筆の二大ライバルです。師匠の真似をやめるゾといった気概を感じずにはいられません。
つぎに音楽です。
開高健は『 風に訊け 』を書くまえにワルキューレの騎行を聴くと答えています。
作家志望の登場人物は、モーツァルトを聴くと書かれています。
開高健もモーツァルトを筆頭にクラシックを聴いていたので、しっかりと離れ、破るとは言えない箇所です。
最後のシンボルはしっかりと違いを感じとれます。
開高健は料理をしません。食べる専門だと言いきっています、書ききっているか。
『 開高閉口 』でスキヤキ、ハンバーグを作った、サカナの肝を煮た、大学生時代にブタのシッポを焼いた、自分で料理をした描写はこれぐらいです(もうすこし探せば他にも見つけられるかもしれませんが)。
作家志望の登場人物は、料理をします。うどんを作ったり、伴侶のかわりに料理を作る様子が書かれています。
『 阿弥陀堂だより 』では、たくさんの料理が作られます。なかでも私がもっとも注目した料理はオニオン・スープです。
オニオン・スープは、大量のタマネギを丹念に炒め、フランスパンを浮かべチーズをいれ天火でしあげる料理です。
このオニオン・スープこそ、もっとも師匠である開高健を破り、離れるぞといった決意表明だと思いました。
長く小説を書けなかった開高健。
新潮社クラブ(作者が滞在し作品を執筆する場所)に開高健はこもりました。
けれども、まったく、ちっとも小説を書けず、新潮社クラブにこもった作家のなかで、もっとも小説を書けなかった作家と今も言われているそうです。
ちなみに新潮社クラブには、派手なセーターを着た開高健が現れるという噂が。
つぎに、長く新潮文庫のホテルや詰所にたれこめ小説を書けなかった作家、それが檀一夫です。
檀一雄は、小説を書くのに行き詰まると、便所で大根をすりおろしたり、大量のタマネギを丹念に炒めだしたと言われています。
檀一雄の娘である檀ふみさんも夜中によくチチがタマネギを炒めていたと書いています。
タマネギを炒めて作るオニオン・スープは檀一雄の十八番料理です。
そのオニオン・スープの作り方は、檀一夫が書いた『 檀流クッキング 』に書かれています。
檀一夫が、オニオン・スープを作っていたのは分かった、それが破り、離れることとどう関係するのか。
檀一雄は、病におかされながら口述筆記にて大作『 火宅の人 』を書きあげました。
のちに『 火宅の人 』はベストセラーに。
師匠である開高健から離れ、自分の文体を見つけ、書きたいものをみつけ、小説を書きあげてやるぞという決意をきつね色のオニオン・スープにこめたように感じました。
事実、師匠の教えを守り、鍛錬をつみ、破り離れた南木佳士さんの文体は、師匠である開高健とまったく違います。
開高健の文体は、熱帯雨林の湿度とフランスの豪奢さに、少々のスカトロジーを混ぜあわせたようなねっとりとした形容詞や比喩のおおい文体です。
南木佳士さんの文体は、信州の薄氷を踏むようにドライ。ハードボイルド文体の祖であるヘミングウェイにちかく比喩を削りに削った文体です。
開高健と南木佳士さんの文体に共通する点は、見える、聴こえる、感じられることでしょうか。
新しい自分の文体と書きたいことを見つけ師匠から離れた南木佳士さんは『 阿弥陀堂だより 』を書きあげました。
なお、開高健も芥川賞を受賞したあとスランプに落ちいっています。
そして、井伏鱒二や武田泰淳のアドバイスからルポを書きます。
『 ベトナム戦記 』を書きあげたのち代表作である闇シリーズを書きあげました。
というわけで『 阿弥陀堂だより 』は、小説を書けない、文章を書けないと、悩んでいる作家、作家志望、ライターにおすすめの小説なのです。
文章の師匠を見つけ、師匠の教えを守り鍛錬にはげむ、自分の文体やスタイル、書きたいことを見つけ、そして、師匠から離れ破り文章を書きあげる。
私は開高健という文章の師匠は見つけています。
なお、日々の鍛錬がたらずに、小説は書けていません。
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