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文章の語尾問題について ですます調とだである調は混ぜてもよいのか 混ぜると劇毒ができるのか

noteを書いているとき、文章を書いているときに悩まさせる問題が語尾問題。

日本語の宿痾ともいえる語尾問題。
文字を書いていると、影のようにつきまとい、お風呂場のカビのようにしつこい語尾問題。

語尾の二大派閥。
ですます調とだである調。
この二大派閥を混ぜて文章を書いてはいけない、アルカリと塩素洗剤を混ぜてはいけないように、混ぜてはいけないと言われている。

ですます調とだである調を混ぜ書いてもかまわないと、文才がなく、文章に鈍感なわたしは考えている。

ただし、エッセイにかぎる。
小説にかんしては、修行不足なのでわからない。
ですます調の小説は、絲山秋子さんか宮沢賢治ぐらいしか読んだことがないので断言はできない。

なお、お仕事として文章を書くときは、クライアントさまの要求どおりに語尾を統一している。
これは絶対に守りましょうね、分かりましたか?分かりましたね?

文章を書く仕事のご依頼をまってます。

小説を書くときと、お仕事の文章を書くときをのぞき、ですます調とだである調を混ぜて書いてよいと、わたしは結論をだした。

それは、わたしが語尾について無頓着なのが理由のひとつであると思う。
ヘミングェイなどのハードボイルド小説を筆頭に、た、た、た、と続いても、まったく、ちっとも、すこしも違和感を覚えない。
だから、二流のモノカキなのかもしれないのかもしれない。

ですます調とだである調を混ぜてよいと結論をだした最大の理由は、有名なエッセイスト・文豪たちが、ですます調とだである調を混ぜ書いていたからだ。

巨人の肩にのりあたりを睥睨する、ライオンや虎の威をかりる、ジャイアンのうしろのスネオ、とりあえず有名なエッセイスト・文豪たちがですます調とだである調を混ぜて書いているので、混ぜて書いてよいのだ、と結論づけたのである。

権威に弱い日本人であれば、あのエッセイスト・文豪も語尾を混ぜてエッセイを書いているんだ、と言えば、「うん、まぁ、はい」とゴニョゴニョするのではないだろうか。

ふと、席をはずした瞬間に虎の威を借りやがってと陰口をいわれる可能性はある。おおいにあるだろう。

たとえば、文豪界のシーラカンスめいてきている筒井康隆さんが書かれた『 創作の極意と掟 』というエッセイがある。
いかめしい名前だが、小説家をめざすひとであれば、読んで損をしない一冊。
そのエッセイにずばり「語尾」という項目がある。どんな有名な作家でも語尾は悩むものであり、作家たるもの多いに語尾に悩むべきであると書かれており文章はさらに続く、語尾に悩んで悩んで悩みぬいたさきに悟りがあるのです。

だである調ではじまり、段落の最後にです調をもってきている。
「あっ、語尾問題は、悟りなんだ」と思わず納得させられてしまう魔力がある見事なテクニック。
おいおい、結局は悟りかよと、ツッコマせないパワーがある。

長年執筆をつづけていると、語尾が連続していると、頭や目にチカッと警告ランプがひかるようになるそうだ、それが悟りの境地なのだろう。
文章を書くひとは、語尾に悩み、考え、消し、変化させ、組みあわせ、ながくながく悩みぬいたすえに悟りがあるそうです。

なお、お仕事として文章を書くときは、クライアントさまの要求どおりに語尾は統一する。これは絶対に守りましょうね、分かりましたか?分かりましたね?

続いてご紹介する作家は、文豪でありエッセイストであり、フィッシャーでもある開高健。
なぜ、うえの文章を引用したか、開高健は、うえの文章のように語尾を混ぜあわせる。

開高健のように知識があり、エライ人が書けば、人をさとす効果をもたらすが、私のような青二才がつかうと鼻につく。
やたらめったらに使うべきではない語尾の混ぜかただと思う。

また、開高健も、段落の最後にですます調をもってくる語尾の混ぜかたもしている。

さらに、開高健の混ぜかたに、語尾の最後に~ですゾ、と最後の一文字をカタカナにする技術もある。
この混ぜかたは、私も好んでよく使う。
最後の一文字をカタカナにすることで、スパッと物事を断定したり、結論づける効果があるように思う。

思いますよね?思いませんか?

男性作家ばかりが、語尾を混ぜているんじゃないの。そう思われたかもいらっしゃるでしょう。
わかります、わかります。

つぎは女性作家の向田邦子の語尾の混ぜかたを紹介しましょう。
話はそれますが、「しましょう」は、ですます調にいれられているが、なんとなく違和感がある。
「しましょう」は、ですます調とだである調どちらにもフィットするように思う。どう思います?
さて、話をもどしましょう。

ですます調にだである調を一文混ぜる方法なので、ですます調で文章を書く機会がおおい我々でも使いやすい語尾の混ぜ方といえる技術。

向田邦子は、おいしいご飯を食べるのが好きで、料亭などでおいしいご飯を食べるときは、目をつむり、舌に神経を集中させ、味の秘密を探求していたそうだ。
その姿は、まるでロダンの考えるひとや、菩提樹のしたで瞑想する修行者のようだと向田邦子は、思っていた。
けれども、知人から見ると、珍妙で、頓珍漢で、ふざけている、遊んでいるように白目をむいているように見えるよと伝えられる。そこで、ひとこと。

「ほっとけ」

ですます調で淡々と書かれていた文章のなかにである調を混ぜた「ほっとけ」には、剛速球が飛んできたような衝撃をうける。
ですます調で書いているエッセイのなかで、じぶんの意見をガツンと強く伝えたいときは、だである調で書くとインパクトがます。
海に浮かぶ岩のように屹立した一文になる。
シロサイの角のように独立独歩したインパクトをあたえられる。

向田邦子の語尾の混ぜかたは、どこかの本で読んだ知識なのだけれども、どの本で読んだのか思いだせない。
だれかご存知のかたは教えてください。

ここまで紹介してきた語尾の混ぜかたは、文章をひきしめたり、なにかしらの効果を期待して、あえて語尾を混ぜた文章の技術といえる。

つぎにご紹介するおふたり。坂口安吾と三島由紀夫。
竹を割った勢いで床まで割る勢いの文章を書く『 堕落論 』で有名な坂口安吾。
そして、美文家といえば、五本の指にはいる三島由紀夫。

おふたりは、自由に無秩序に、ですます調とだである調を混ぜあわせエッセイを書かれている。
わたしの酒におぼれた二日酔の脳と加齢からたれさがったまぶたが重い目では、お二人の語尾をかえる規則性などみいだせない。
段落ごとに語尾をかえていたり、段落のなかでも語尾をかえていたりする。
それでいて、語尾が混ざっていようと、語尾が連続していようと、スラスラと違和感なく読める、わたしは。

もしかしたら、語尾に繊細なかたは、坂口安吾と三島由紀夫のエッセイを読むと変だ、奇妙だ、キモチワルイと感じられるかもしれない。

三島由紀夫の『 不道徳教育講座 』は、不道徳とうたっているだけあって、もしかしたら、このように語尾を混ぜて文章を書くのは不道徳だゾと教えているのかもしれない。

いずれにせよ、二流のモノカキの頭では、天才の考えていたことは分からない。

以上のことから、著名なエッセイスト・文豪も語尾を混ぜて文章を書いている。
著名なエッセイストから文豪とよばれるかたも語尾も混ぜて書いているので、語尾を混ぜて書いてもよいと結論づけた。

語尾を混ぜたエッセイ書き、他人に語尾は統一すべきダと注意されたのであれば、このように返答するとよい。

「三島由紀夫も語尾を混ぜてエッセイを書いていますが」と。

さらに、「あなたは、三島由紀夫よりも美しい文章を書けるんですか」と追い打ちしてはいけませんゾ。

友達をなくすか、親にケツをぶたれるか、先輩からゲンコツが飛んでくるか、痛いめをみることは必定である。

分かりましたね、分かりましたか、分かりましたよね。

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