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だから僕はJリーガーを引退した

今から2年前の2018年の2月3日、僕はJリーガーを引退した。
高校在学時、ジュビロ磐田と結んだ契約は4年。しかし僕は3年でその選手生活に区切りをつけた。
決して華やかな選手生活とは言えない。そんな僕の選手時代から引退に至った経緯、想いを綴ろうと思う。少しでも多くの人の助けになれれば幸いだ。

1. 現役最後の年

3年という短いプロ生活最後の年、
僕はガイナーレ鳥取にレンタル移籍することになった。
この1年僕は「勝負の年」と位置付けていた。
もちろん、選手生活の1年1年は全てそうであるはずだが
プロに入団し、目立った成績を残せていない僕にとっては選手生活を左右する年だったのだ。
というのもプロ入団2年目、キャンプでの面談で鈴木秀人コーチ(当時ジュビロ磐田ヘッドコーチ)に言われた言葉が心に強く残っていたのである。

3年で芽が出ないやつはプロでは通用しない

現役としても様々な選手を見てきたヒデさんのこの言葉は間違いではないだろう。
とにかく試合に出て目に見える結果を残さなくては。
焦る気持ちが僕を動かした。

迎えた2017シーズン
開幕前の動きは悪くなかった。
これまでサイドでプレーしていた自分は最も得意とするセンターフォワードで起用してもらった。
この年のガイナーレ、森岡さんを新たな監督として迎え、若く勢いのあるチームだった。
3年目の僕にも後輩ができ、チームでは中堅の立場になった。
自らの結果にこだわりつつ、練習での雰囲気作り、プライベートでの
コミュニケーション作りと役割は広がった。
J1のチームにいたという傲慢は必要ないが、数々の先輩から教えてもらったことを少しでも還元したいという思いで日々を取り組んだ。

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しかし結果はついてこなかった。
前半戦こそ途中からスタメンに定着し、得点を重ねたものの
後半戦では全く得点が出来なかった。
自分の不出来さも響きチームは連敗を繰り返した。
僕は勝負の年、3年目も活躍できなかったのだ。

2. 引退の決断

シーズンも終了し、来シーズンの契約交渉が行われる。
あと、1年契約を残す僕はレンタル移籍をすることになっていた。
実際に、クラブハウスに出向きお話を伺ったチームもある。
だが僕が下した決断は引退だった。
決して誰かに勧められたわけでもない。むしろ若いしまだまだチャンスがあるだろうと背中を押してくれる人の方が多かった。

日本代表にはなれないな

来シーズンを考えていた僕がたどり着いた部分である。
甘くはないが、このままプレーを続け努力し、なんとかJリーガーとして選手生命を繋ぐことはできたかもしれない。しかしその先、日本代表にはなれないと思った。
ありがたいことに様々な選手とプレーし、関わり、身近にこの目で実力を感じることが出来た。J1で活躍する選手、実際に代表に行った選手、海外での経験がある選手。これらを踏まえ僕はそう悟ったのだ。
プロである選手が自らの限界を決めることには様々な意見があるだろう。
しかし僕は短い選手生活でもやり切ったという思い、そして自らの価値観、そして本当の目的を考えこの決断をした。

僕には夢があった。社会をより良くする
ありきたりなものかもしれないが、小学生の時から強く感じていた。
マイケルジャクソン、キング牧師から強いインスピレーションを受け、アルゴアの「不都合な真実」を読んだ僕にとってそれは至上命題であったのだ。
名前の由来オリビエ=オリーブ(国連の象徴の木)も関わってるかもしれない。
とにかく社会をより良くする活動を行いたい。方法はなんでも良かった。
マイケルみたいに歌手として平和を謳うのもいい。
保育士として未来に生きる子供たちの手助けを行うのもいい。
だが僕にはサッカーがあった。
サッカー選手として活躍すれば世界中に向けた発信力を持つことができる
大好きなサッカーはそんな僕の夢への1つの手段であったのだ。

だからこそ日本代表になれないと僕がサッカー選手として存在する意味はないと感じた。(あくまで自分の中だけの話で全ての選手に意味があります)
それよりもサッカー選手は引退しても、もっと他に社会をより良くする手段はあると感じたし、これまでの経験は生きると感じた。

僕はサッカー選手は引退したが、人生の意義は続いている。
むしろ前向きな判断だった。
引退後はセカンドキャリアとよく言われるが、
僕の終わりのないファーストキャリアは序章にしかすぎない。
目的はそのまま手段を変えたのだ。

3. 引退を決断できたわけ

選手を引退するという決断を下すのは難しいと言う。
実際、引退後燃え尽き、しばらくの間新たな取り組みを出来ない人や、サッカー選手であったことを引きずる人は多数いる。
賛否両論あるが、僕は契約満了をまたず、3年という短さで引退の決断をした。
その決断には僕の経験や思考が強く関わっている。

-①3年で4カテゴリーを経験

高卒でジュビロ磐田に入団した僕はチームの昇格やレンタル移籍を得て、
3年間でJ1,J2,J3,JFLという4つのカテゴリを経験した
10年来の選手でさえなかなか味わえない経験をたった3年間で行えたのだ。
その中で各カテゴリでのチーム状況や選手の生活実態、引退後のキャリアなど幅広い視点で見ることが出来た。
プロ1年目に行われるJリーグの新人研修でチェアマンを務める村井満さんが選手のキャリアのリアルをデータを用いて説明されていたが、それを自らのキャリアを通じて学べたのだ。
これらは世間でアスリートのセカンドキャリア問題と呼ばれることからご存知の方も多いだろう。
どのような選手キャリアを積んだ選手がどのようなその後を辿っていくのか、偏差はあるものの大まかな部分を掴んだ僕は自分のキャリアと当てはめ、より早い時期での変換が必要と感じた。

-②岩元家での教育

これは最も決断に関わってくる部分だろう。
僕の家族はとにかく僕の人生を全力でサポートしてくれた。
真面目な父、心優しい母、家族想いな妹、そして今もサッカー選手を目指す弟だ。
様々な経験をさせてくれ、また僕の決めた道にできる限りの助けを与えてくれた。決して、強制はせず、人生の選択は僕自身に委ねてくれた。

そんな岩元家だが、昔からの教えがある。

スポーツも勉強もどちらもしっかりやりなさい

いわゆる文武両道の考えだ。
言葉を気にせず言うとスポーツしかできない奴はダサいと言う思考になっていた。
鹿児島出身ということもあり、数多くのプロを引退した選手が身近にいた。
学びを怠ってきた選手が引退した後、どのようになるかを見ることで感じたことも多くあった。(これは全ての人には当てはまらないため、偏見も含まれています)

ポジティブな面で言うと
中田英寿選手がイタリアに渡るため、学生の時からイタリア語を勉強していたことや、
2004年のアジアカップ、ヨルダン戦で宮本恒靖選手が審判と英語でコミュニケーションをとり、PKを行う場所を変更していた事例などもこの考えに寄与している。

だからこそ学生の頃から勉強は必死にやっていた。小、中は常にクラストップだったし、高校では自ら理系クラスに進学した。
学ぶことへの毛嫌いは一切なかったし、自分はサッカーだけではないと自らで言い聞かせていた。

選手が引退を恐れる理由として、サッカー以外の自分が見えないということが多くあげられる。
だが、両親のおかげで学びを好意的に捉えていた僕は、サッカー選手岩元颯オリビエだけでない自分を持っていたため、そこに恐れを抱くことはなかった。

-③自らの人生設計

人生とは旅であり、旅とは人生である

中田英寿選手が2006年W杯後自らのブログで綴った一文である。
当時小学6年生であった僕は、学校の図書館に貼ってあったこの言葉に引き付けられるものがあった。
彼は29歳で選手を引退した。その後は皆さんの知っている通りだ。
日本のそして世界のトップで闘ってきた選手の引退。解釈はそれぞれだろう。この言葉が自らの人生を考える1つのきっかけとなった。
上記でも触れたように僕には大きな夢があった。そしてその中にサッカー選手という手段の夢が存在した。
当時から自分の選手生活は長くて30だなとぼんやりと思い描いていた自分にとって、引退した後何をしようか、どうすればいいかは常に模索していたし、そのための学びは欠かさなかった。

描いていた選手キャリアではなかったし、3年で引退をするとも思っていなかった。だが、サッカー選手のその後が見えていたからこそ引退の決断に踏み切れたし、今も迷うことなく進む事が出来ている。


4. 引退のその後

プロになる際、最後まで悩んだことがあった。プロに行くか、大学に進学するかだ。プロなら、大学ならとそれぞれ1つまでは絞れたが、そこからは長かったと思う。推薦で学位の高い大学に入れる。魅力的に映った。僕に対して押しつけはなかったが、両親も僕の大学進学を希望していた。
父に至っては
お前には早慶戦のピッチで紺碧の空を歌ってほしいと話していたほどだ笑
最後の決めては自らの心がプロに振れたからだ。俗にいうリトルオリビエがってやつである笑
その際、父親に言われたことがある。

プロおめでとう。全力でサポートする。だけどもし引退したときは大学に行って欲しい。大学はいつからでも行く事ができる。学びは一生だ。

Jリーガーを引退した僕はその年、大学生になった。
今は法政大学に通い20歳のみんなと学ぶ現役の大学2年生だ。
大学は本当に多くのことを学べる。サッカーから離れた僕は4年間という自由な時間と場所を手に入れた。
この2年間で様々なことを経験し、現在はVC(ベンチャーキャピタル、投資ファンドの運用を行う組織)で働いている。
社会をより良くしたい。未だ夢の途中ということだ。
大学での生活や、行っている活動等はまた後日書かせてもらいたいと思う。


5. 最後に

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川上FC、京都サンガ、ジュビロ磐田、ヴァンラーレ八戸、ガイナーレ鳥取の選手、関係者の方々。
そして岩元颯オリビエを応援してくださった全てのサポーターの皆さま。
多くの方のおかげでかけがえの無い3年間を過ごす事ができた。
選手であったことは誇りであるし素晴らしい決断であった。
応援してくれていた方に選手としての期待に応えれなかったことは申し訳ないと思っている。しかしその応援は今でも僕の心に残っており、僕の人生の一部として築かれ、間違いなく今後力強く進む活力となるだろう。
僕の人生の意義を果たすべく道は続く。
感謝の心はこれからの生き方で表していきたい。


人生もう一度やり直せるなら、何になりたいですか?
僕は自信を持ってこう言うだろう

サッカー選手になりたいです

と。



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