ひとりぼっちのサンクスギビング
結婚を機に、カナダで住むようになって21年目の秋だった。私はこれまでとは全く異なるサンクスギビング、収穫感謝祭のウイークエンドを過ごす事になった。カナダのサンクスギビングはアメリカと同じ起源で、ヨーロッパから安住の地を求めてやってきた清教徒が、北米の先住民達に助けられ、新天地での初めての収穫を、神への感謝と先住民達との友好の印として祝った事が由来とされている。カナダのそれがアメリカの感謝祭と違うところは、そのタイミングだ。北と南では農作物の収穫時期がずれるため、カナダの収穫感謝は10月なのに対し、アメリカは11月に祝う。ハリウッド映画にもよくあるテーマだが、サンクスギビングは、クリスマスと並んで家族の集まるイベントなのだ。趣旨は全く違うが、日本のお盆の時のように、遠く離れて住む家族が里帰りをして食事を共にする。コロナ禍に見舞われてからは、それも容易でなくなってしまったが、家族の絆を再確認するような、そんな伝統が北米にはある。私の誕生日が10月なので、しょっちゅうサンクスギビングと重なるのだが、その年も例外ではなかった。義母は毎年恒例の七面鳥の丸焼きを用意し、私達と義兄家族、そして親戚を招待した。子供達が、祖父母の家でサンクスギビングの晩餐の支度を手伝っている間、私は抗がん剤の緊急治療を受けてぐったりしている夫の病室にいた。連休だったので、友人達から「お見舞いにいってもいいか。」と連絡があった。本来なら、家族や友人、親戚と過ごす休日なのに、癌の宣告を受けたばかりで不安と痛み、苦しみと恐怖を抱えている夫に、私がしてあげられる事はなんだろう...そう思うと、誰かにすがりたかった。夫の気力をそれ以上消沈させないためと、自分を奮い立たせるため、できるだけそれまでと変わらず普通に振る舞う事にしていたが、夫にはそんな私が無神経に見えていたのかもしれない。普通でない状況の時に、それまでと変わりのない自分を保つことの難しさ。強くあろうとする姿が、図太くて無神経に見えてしまう事。自分が体験してみて分かった。そうでなければやっていられないのだ。抗がん剤と強力な鎮痛剤で、体力も低下しており意識も少しぼーっとする時もあったが、何よりも夫は精神的にまいっていた。「具合が良くないけれど、ほんの少し顔を見にくるだけでも寄ってくれれば、本人は喜ぶと思う。」と友人達に返事すると、皆他の見舞い客とかち合わないよう時間を調整して来てくれた。とりわけ親しくしてくれている友人夫婦も2組で来てくれて、夫が冗談を言うと「いつも通りそんな冗談が言えるくらいなら大丈夫。安心したよ。」と温かい笑い声が病室に響いた。特別な食事も飾り付けも、子供達の笑顔もない無味乾燥な病室で、心配し激励してくれる友人達との、ある意味本当のサンクスギビングだった。その後私が付き添っていると、夫が「子供達も皆も待ってるから、もう行っていいよ。」と言った。「早く」と私を急き立てながら、これからひとりぼっちのサンクスギビングを、痛みと吐き気に耐えながら過ごさなければならない夫の目に涙が溢れていた。廊下を歩きながら、私はぼろぼろと涙がこぼれてきて、ナースステーションで立ち止まると、その夜夫を担当することになっている若い看護師さんに、「くれぐれも彼をよろしくお願いします。」と頼んだ。
義母の家に着くと、皆はとうに食事を始めていたが、優しい笑顔で迎えてくれた。「遅いから全部食べちゃったじゃないか。」と言う義兄に、「デザートはまだでしょ。」と言うと「デザートは食事の後だ。 ターキーならそっちにあるから、早く食べろ。」と答えが返ってきた。こんな普通のやり取りが嬉しかった。優しい言葉をかけられたら、皆の前で泣いてしまいそうだったからだ。子供達の他に、親戚の子供達も来ていたが、彼らの父は2、3年前に失踪している。そしてその子らの叔父も来ていて、彼の妻は何年も前に乳癌で亡くなった。その夜パートナーと来ていた夫の従姉妹は、以前乳癌の治療を受けている。夫に去られた妻、父の行方を知らない子供達と、癌で妻を失った夫、癌と闘って回復した女性とそれを支えたパートナー。そんな顔ぶれだったからこそ、何も言わなくても皆の気遣いが痛いほど分かった。それぞれに人生のダメージを経験し、その苦しみを分かっている。苦しみの中でこそ、当たり前でない尊い命や、人との繋がりに改めて感謝するサンクスギビングだった。そして同時に、たった独りで闘いを続けている夫を想った。
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