なんちゃってバイリンガル家庭のおかしな会話

私は20年以上前に、留学中に出会ったカナディアンの夫と結婚して、思いもよらずカナダはアルバータ州に住むことになった。

夫は私と出会う前に、日本で英会話教師をしていたこともあって、片言の日本語なら分かるけれど、家での日常会話はほぼ英語だ。

私は子供たちに日本語で話し、子供たちはパパには英語で話しかけ、私には英語混じりの日本語だったり、日本語の混ざった英語という、なんだかちゃらんぽらんな言語で話しかけてくる。なまじ、私も彼らの言わんとしていることが分かってしまうので、そのまま会話がすすんでしまうのである。

面白いのは、もうじき18になる娘が英語で話す時と、日本語で話す時のギャップだ。娘が英語で話していると大人びて聞こえるのに、日本語になると急にかわいらしいというか、幼く聞こえる。

私は日本語でも英語でも対等に話しているつもりなのだけれど、彼女の通っていた日本語学校は、小学校4年までしかなく、それだからなのか、語彙もその辺りでとまっているのかもしれない。それと、娘が小さい時に日本語を覚えて欲しくて、ほめる時や愛情表現は日本語で、しつける時や叱る時は英語を使っていたので、今でも彼女は甘えたい時に日本語を使う。

息子の方は、いかんせん何でもお姉ちゃんの真似をして育ち、お姉ちゃんとはほとんど英語で話す。そんな子供たちには、日本語でもそれぞれ、好きな言葉や嫌いな言葉があるのだそうだ。

娘の嫌いな言葉は、「せっかく」ということばだという。「せっかくお弁当を作ったのに、食べてもらえなかった。」というような表現で使われるように、娘にとっては必要以上に残念で悲しい気持ちになるのだそうだ。ちなみに、英語で「せっかく」という言葉は、しっくりくるものが思い当たらないそうだ。

息子の嫌いな言葉は、「そろそろ」である。いつもこの言葉が使われるのは、決まって、何か楽しい事をしている時に中断される時か、やりたくない事をこれからやらされる時だからだ。同様に、「さあ」というかけ声も嫌いらしい。これはバイリンガル家庭に限ったことではないかもしれないが。そんな彼らは、独自の表現も持っていて、おこわとかお赤飯のようなもち米の入ったご飯を、もちもちご飯と呼ぶのである。そして私が大河ドラマを見ていると、それをサムライドラマと呼ぶ。

娘が小さい時に、里帰り中、実家の近くのレストランで、何を食べようかと選んでいた時の事だ。私の母がメニューを見て、「山菜うどんも美味しそうだね。」と言ったら、娘は嬉しそうにこう答えた。「○○ちゃん、三才だから、さんさいごはんにする!」ウエイトレスさんに笑われたのは、言うまでもない。瞼が腫れてしまって眼科に連れて行った時も、目薬をさした後、「はい、パチパチして。」と言われて、娘は拍手したのである。これには待合室にいたほとんどの人が笑った。

このような勘違いも、小さい時だけならまだしも、中高生になっても続くのだ。三年前くらいだったか、娘が日本語学校の宿題をやっていて、ことわざと慣用句を集めなければならなかった。「それなら、壁に耳あり障子に目あり、っていう言い回しがあるよ。」と言ったら、「障子にメアリー?!」という答えが返ってきた。娘よ、怖いわ! ホラー映画じゃあるまいし。

ごく最近も、「知り合い」という言葉を使ったら、息子が吹き出した。「え?お知り合いだよ。分からない?」と言うと、大笑いして「もうやめて。」とのたまわる。そう、彼はこの言葉の意味を分かっていないから、「お尻が会う」のだと思っていた。嘘のように思えるかもしれないが、本当の話である。日本人の何でもない普通の会話を聞いて、ニヤニヤしている外国人や帰国子女がいたら、会話の内容を理解しているか確認してみるといい。ひょっとして、何か勘違いをしている可能性がある。

中途半端に言語が分かるのは、必ずしも良いことばかりではないのだ。その証拠に、夫も昔、実家の母から電話がかかってきて、私が不在だったので、おそらくこちらから後でかけなおします、と言いたかったのであろう。彼は日本語で、「電話しますください。」と言った。本人は「下さい」をつければ、丁寧に聞こえると思ったのだろうか。母は混乱していた。「え? 私がかけ直すの?あなた達がかけてくれるのを待ってればいいの?」という具合に。

考えてみると、日本語は主語を特定しないことが多い。「私が、私が」という個人主義の文化でないことの表れかとも思うが、上記のように、主語を特定しないと誰の責任なのか分かりづらい事もある。

そして、外国人や外国で育った日系人にとって、もっとも分かりにくいのが日本語の助詞なのだ。「車で学校へ行く」が、なぜか「車に学校へ行く」とか、「小麦粉でパンをつくる」が、「小麦粉にパンをつくる」という摩訶不思議な、つっこみどころ満載の日本語になってしまう。私も含めて、多くの日本人が英語のtheとaまたはanをなかなか使い分けできないのと似ているのかもしれない。

子供たちは、つい最近まで「~だの?」というどこかの方言みたいな話し方をしていた。私は使ったことのない表現なので、どうしてこの子たちはしょっちゅう、「ママ、これビデオなの?」ではなく「これビデオだの?」と言ったり「それパパのクッキーだの?」と訊いたりするのだろうと思っていた。

どうやら、「~だ。」という断定的な言い方に「の?」をつければ、疑問文になるのだと、子供たちは小さい時から自分の中で思い込んだらしい。面白いのでそのままにしておいたのだけれど、私が面白がっているのがバレて、そのうち使わなくなってしまった。

日本で生まれて育っても、外国に住んで、家でも職場でも日本語の使用が限られると、だんだん日本語を忘れていくのだ。「ママ、これ日本語で何ていうの?」と訊かれて、「えーと、なんだっけ?」なんていうのは珍しくない。

というわけで、私にとってnoteは日本語を忘れないための大切な場所でもある。なかなか頻繁には書けないけれど、ここでいろいろな事を教えて頂きながら、成長し続けていけたらと思う。



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