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見えない世界 part1

こんにちは。
入道雲のいい写真が撮れないまま夏を終えてしまって、アイコン画像をどうしようか迷っている入道雲です。

今回は、
「ほの暗い永久から出でてー生と死をめぐる対話ー」上橋菜穂子・津田篤太郎
を読んで考えたことを書いていきたいと思います。

「鹿の王」「獣の奏者」などの作品を世に送り出してきたファンタジー作家・文化人類学者の上橋菜穂子と、西洋医学と東洋医学の両刃使いの医師である津田篤太郎が、往復書簡という形で「生と死」というテーマについて語り合う内容となっています。

自分が今まで見なかったことにしていた違和感や、心の奥底に抱いていたであろう不思議な思いを言語化してくれていて、一つ一つのフレーズがずしん、ずしんと響いたな~

part1は以下の2節に関して語ります。

​ 宗教を、私は信じません。神仏を思い、拝む気持ちは、実は、とてもあるのですが。なぜなら、私は、自分が想定の箱の中いると、思わざるを得ない。だからこそ、目の前に在るにもかかわらず、自分には見えない、認識できないものが、その箱の外にはあるかもしれず、たとえ、見えず、捉えられず、その実体を特定できなくても、「だから、ない」とは思えないのです。
 それは、しかし、「信じる」という行為とは、多分、正反対の思考です。
 「信じる」というのは、わからないものを、わからぬまま、静かに目をつぶって「想定の箱」の蓋を閉じ、安寧に至る行為ですが、私は、いつまでも虚空に向かって「想定の箱」の蓋を開けていたい。
 目で見ることも、確かめるすべも、まだ知らず、これまで学んできたスケールでは図ることも捉えることもできぬもののみが見せてくれる、未知の何かに、おずおずとふるえながらでも、目を凝らしていたいのです。(P48-49 上橋)
 私たちは言語や科学で記述できるのは世界の一部に過ぎず、ましてやコントロール可能な領域はさらに小さい、ということを忘れがちです。(P62 津田)


私は、コロナでオンラインになった大学の授業で部落差別を学んでから、宗教に対してモヤモヤした思いを抱えていた。上の部分を読んだとき、その正体が分かってちょっとだけすっきりした。

私はいわゆるスピリチュアルな発想を持つ家庭で育った関係で、無意識のうちに「目には見えない世界」の存在を認めてきた。生霊がついているといわれたこともあるし、お祓いをしてもらってから体の不調が改善したこともある。だから、論理的、実証的、科学的、そういった枠組みで捉えられる世界が全てではないのだろうと感じていた。

しかし、部落差別の背景には、人間の認識できる枠組みを超えた、超越的な存在を認める発想があった。部落の人は穢れているから、普通の人と同じ扱いをしてはならない。自分に穢れが移ってしまうから。現代的な見方をすれば、科学的とはいえない、事実とは異なる理由で不当に排除され、重荷を背負わされた人々がいた。被差別部落の人々を身分階級の枠外に置くことで百姓の不満を軽減しようという意図があったのならば、周囲の多くの人々が、為政者の思うままに踊らされてしまったという見方もできる。

もちろん、現代の新型コロナウイルス感染者や医療従事者への差別からもわかるように、科学的な発想が優位にある世界でも差別は生まれる。科学に基づいた「身の危険」はあるし、それを避けることが合理的だとしても、心無い言葉を浴びせたり配慮の姿勢を見せない事態は、残念ながら珍しいことではない。超越的な世界と差別の結びつきは限定的だろという気もする。しかし、「不安に流されず科学を信じてください」というような言説に触れるたびに、やはり、人為の及ばない世界を信じる発想は、罪なき人を傷つける方向に自分を向かわせるかもしれない、という恐れは拭えなかった。

超越的な世界を認めている私は、この問題にどういう立場で向き合えばいいのだろう、というのをここ何カ月か考えてきた。自分は、根拠なく人を傷つける可能性の大きい危険因子なのではないかと。

だからこそ、

宗教を信じること≠超越的な世界を認めること

だという言葉が印象に残った。この定義に沿うと、特定の宗教に入っていない人でも「宗教を信じている」ような状況にいる人もいるだろうし、逆もしかりだ。私は、上橋さんのように、「宗教は信じずに超越的な世界を認める」というスタンスで生きていきたい。そうすれば、神に裏付けられた(と信じている)全ての行為を正当化して望まない結果をもたらす、という事態はある程度避けられるのではないかと思う。

そもそも、コロナの現状を見てもわかるように、超越的な世界を完全否定している人でさえ、非合理的な理由で人を排除してしまうことはある。人間は合理性だけで物事を判断するような生物ではないし、そこには不確実性の高い要素が絡んでくる。だから、科学だけが世界の正しさを表していると思う必要はなく、その価値観に染まれない自分を異端だと考える必要もないのだな~と気づいた。

これを読んでくださっているみなさんがどのくらいの年齢層なのか分からないが、同年代(20歳前後)の友達にこういう話は共感されづらいんですね。人生経験的にも不思議な体験をしてきた子は少ないし、単純明快さや論理の筋が通っているかを重視する時代しか経験していないので。だからこそ自分の特殊性に目が行ってしまっていたけど、世界はそれほど単純じゃないんだな~と気づけたのがよかったかな


ここまで呼んでくださった方がいたら感激です。匿名でまとまった量の文章を書けるnoteは、自分の考えを比較的納得できる形で整理できる半面、その考えが偏っているかどうか検証する機会が少ないな~と思います。Twitterなんかだと反論のリプが来たり炎上したりするのだろうけれど、それがないことにマイナスの側面もある。

だから、どうかこの私の考えを鵜呑みにしないでください。(多くの方には余計なお世話かもしれませんが)

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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