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内気な子だった私が海外で生活したのは。

海外で生活する理由は十人十色だが、私の場合について書く。「働くちかちゃん」だが仕事については割愛させていただく。

結論、私は多様性と価値観を広く持った、柔軟な大人になりたかったから、その修行だと思って海外で生活している。

思春期に父を職業から由来した病気で亡くした。その時に、父が見たかった娘として生きたいと思う半分、自分が生きたかった人生を我慢して広い視野が持てないまま狭い世界で短い生涯を悔やむのは嫌だ、と強く思った。多分父が生きていたら私はそう思わなかったと思う。

私は元々大人しくて見知らぬ大人を酷く怖がる内気な子どもだった。今はすっかり完治したが喘息がつらくて外で遊ぶのが好きじゃなかったし、スケッチブックとクレヨンさえあれば部屋の隅でもくもくと絵を描いていた。

転機は15歳。母が生協の広告にあったアメリカのサマースクール2週間の募集を見つけて私に聞いた。「ちかちゃん、行ってみない?面白そうよ。」

母の大奮発で初めて親から離れ、同じく日本から来た10名ほどの中高生とアメリカの高校の先生に英語を習いアメリカ文化に触れる機会をもらった。この時現地の同年代の学生と交流する機会があって初めて、

「面白いと思って笑うのも、残念だと思って悲しむのも、言語は関係なくて一緒なんだ」

と実感。何故だろう日本では外国人が宇宙人のように遠くて、英語は理解が難しいと感じていた私には衝撃だった。しかも英語は私にとって日本語よりも素直に気持ちを表現出来る気がして、自分の意見を持つことを尊重するアメリカ文化がとても魅力に思えた。

それから好きなことを磨くよりも手段を持つことを選んだ私は、ある程度の英語力の習得に努め、英語を使って仕事をしようと思うようになった。が、イマイチ何がしたいか分からなかった。

アメリカと日本じゃ極端に違いすぎるんだよな。第一毎日ピザやハンバーガーなんて無理。アジアだったらお米が食べられる。じゃあアジアで英語が生活に馴染んでいて、収入が将来の貯蓄になるような国はあるかな...と思ったのが21歳。こんなフンワリした考えしか無かったので、毎回面接でその会社ごとの将来ビジョンが描けず就活大失敗中だった。自尊心もパカッと割れて就活は無力だった。本屋を徘徊しインターネットで調べていくとあるじゃないか、そんな国。

シンガポール。

東京都ぐらいの大きさで多民族国家で更に外国人労働者も多い。日本と友好関係、公用語が4つありGDPも高く、アジアのハブであり通貨は1ドル65円(2012年当時。2020年現在1ドル78-80円ほど。)。何もかも理想だった。

シンガポールに住み始めたのは26歳でシンガポールの存在に気付いてから5年後。19歳から25歳にかけて、割と無茶なホームステイ(よく生きていたと思う)や弾丸旅行でアジアを中心にいくつかの国を訪れたが、シンガポールが一番合っていたと思う。仕事は正直、ずっと好きになれなかったけど、この国の居心地の良さで4年も住み付いてしまった。同じ国に色んなルーツを持った人がいて色んな考えがあるというのは面白い。知らない間に育っていた偏見も重ねる年が増えると見方も変わってくる。日本のいいところも悪いところも代わる代わる見えてきた。1番感じるのは、人を許すことが簡単になったということ。10代の頃より人にやさしくなったと思う。

20代のうちにたくさん吸収しておこう。そう思ったのは大正解だと思うし、日本に帰って30代が始まるとどんな影響が出てくるだろう。恐さ半分楽しみでもある。

父あり母あり今に至ることに感謝をして、自分の人生を生きていきたい。

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