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本当に田舎から人は減っているのか

人が増えないから減る!

「田舎では人がどんどん減っている。」
田舎で暮らしているとよく聞く言葉だ。

人口減少を簡単に2つに分けるとすると、
「死亡」と「転出」にわかれる。

愛媛の山間いのとある町では
人口減少のうち、
死亡が7割、転出が3割だという。

人が死ぬのは仕方のないことであり、
転出も何割かは進学や就職といった、
子どもたちの進路によるところが大きい。

となると、田舎から人が減るのは、
実は抗いようのない、
仕方のないこと、と言うこともできる。

ではなぜ、人々は
田舎から人が減ったと騒ぐのだろうか?

ここで、減るものに対して
人口の増加についても見てみる。
人口増加も2つに分けることができる。
「転入」と「出生」だ。

田舎では
新しい移住者が増えにくく、
子どもも生まれにくくなっている。

最大の原因は若者の転出だ。
若者が転出する田舎は
おのずと子どもが生まれる機会も減る。
田舎では働ける世代の若者が
どんどん都会へと
出ていってしまう。

都会

出稼ぎや都市の人口不足

1950年ごろから
田舎から若者が減り始めた。
当時の状況は、経済拡大のために
都市部に人口を増やす必要があり、
出稼ぎやサラリーマンとして
田舎の若者が都会へ移動した。

昭和初期まで少数派だった
都会に行く人々は
田舎の人にとっての
憧れの存在となった。

子どもたちに都会に行くように薦める親と
都会への憧れを持つ子どもの
構図が出来上がっていった。

都会への憧れは昔話でもなく、
現役で田舎に暮らす親と子どもに
しっかりと受け継がれている。

1970年ごろから変わらないスタンス

50年前の1970年台、
全国の田舎は人口のピークを迎えていた。
どんどん都会に出て行こう!
という機運があったものの、
「出生」が多かったため、
人口の減少率は目立たなかった。

1970年よりも以前は、
地元で生まれ、地元で育ち、
地元に近いところで働き、
子育てをするのが一般的だった。

田舎から溢れた人口が都会へ出向き、
新たな商売や住む場所を作っていった。
田舎に残るのが基本で、
出ていくのが少数派だった。

しかし、都会への憧れや
仕事の豊富さ、進学の豊富さから
どんどん人は都会へと流れていった。

田舎の人口減少は
1970年ごろから国土形成計画でも
問題視されている。
しかし、2021年にいたるまで
あまり状況や人が出ていく構図は
変わっていない。

総務省の掲げる「地方創生」

田舎が危機に瀕している状況に
政府が黙っていたわけではない。

2014年、田舎の人口急減・超高齢化を食い止めるべく
総務省が掲げた言葉は「地方創生」だ。

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上の画像は『地方創生の現状と今後の展開』2019年
に書かれている、地方創生の4つの基本目標と、
それに関する政策パッケージである。

政府としては、情報、人材、財政的支援を行うことで、
地方に仕事を作ったり、人の流れ、若者の暮らしやすさ、
地域連携をしていく方針を立てている。

方針に基づき、国の人口減少の歯止めと、
地方の人口減少の歯止めを効かせるための
法律や条例で制度化され、
補助金、交付金などが次々と出されている。
2021年現在まで続いている。

地方創生の名のもと、
毎年国の予算は約1兆円が用意され、
7年が経過する2021年現在、
約7兆円が地方の人口減少の歯止めなどに
使われたことになる。

(2021年度に新たな地方創生に関する方針
『まち・ひと・しごと創生基本方針2021』が発表されているが
ここではリンクを載せるのみとし、省略する)

なぜ田舎は嘆き続けるのか?

2014年の地方創生が始まって以降、
田舎の現状が良い方向に進んでいるのだろうか。

実際のところ、
順調とは言い切れない。

7兆円の予算を投じても
人口は減り、学校も次々と廃校になっている。
耕作放棄地は増え続け、農家の担い手はない。
会社や店は減り、空き家と空き店舗が増加している。

空洞化した、土地や建物は放置され、
田舎に行くと、寂れた印象が漂う。

どうしたら地方は創生するのだろうか?
地方創生はなぜ始まったのだろうか。

政治的に地方創生を考える

地方創生という政策は
政治の一環である。
政治は有権者(選挙権のある)である
市民が要望し、実現する。

地方創生を要望する市民の中心は
ズバリ、田舎に暮らす人々だ。
衰退を止めてくれと要望があり、
政策が作られてきた。

では具体的に田舎の人々がいう
衰退とはなにを指すのだろうか?
そして、これからの展開に
何を求めているのだろうか。

おそらく、政策を考えるうえで、
田舎に暮らす人々の要望はたくさん
聞かれたはずだ。

しかし、本当に求めていることを
地元のおいちゃん、おばちゃんは
言ったとは言い切れない。
じいちゃんばあちゃんの本音は
政府の偉いお役人さんの前で
出すものでもなければ、
ワークショップを開いても出てこない。

日々の井戸端会議、
居酒屋のテーブルで
ひょいと出てくるのが
彼らの本音である。

以下は移住して2年半、
筆者が愛媛の山奥のまちで意識的に
地元の人に聞いてきた本音である。

田舎に暮らす人々の本音

彼らは「担い手不足」を嘆く。
お祭りやイベント、農協や商工会の役職、
グループや運営団体の人手不足を嘆く。

また荒れていく畑、田んぼ、森林を
管理する人がいないことを愁う

そして店舗や小学校、病院など、
これまであった地元のサービスが
なくなっていくことを寂しがる。

もし衰退する田舎に
マンションを建てて、
住む場所を確保しても、
団体に所属しなかったり、
田畑や森林の維持に
興味のない人であれば
彼らは喜ばない。

田舎が求めているのは
彼らの活動の
「担い手」であり、
実は人口の増加ではない。

そして、担い手の中でも
どんな担い手を求めているかを
「最近できた担い手」と
「昔からの担い手」の
2つに分けて考えたい。

「昔からの担い手」

「昔からの担い手」は
田畑、森林、店舗、住居の担い手だ。

田舎ではじいちゃん、ばあちゃんが
先祖代々、暮らしの中で
里山を管理してきた。

美しい里山を作り、
維持し続けることは
自分たちの誇りを作り、
自慢できるものであった。
「おらが村」はとても大切な
心の支えだった。

少しづつ積み上げてきた
田畑や森、川が、ここ数十年で、
どんどん荒廃している。
田舎の人々は昔から維持してきた
里山を維持するための担い手不足を
叫んでいるのである。

最近できた担い手

「最近できた担い手」は
農協女性部、商工会青年部、
〇〇商店会、〇〇生産者組合、
など、今ある組織の担い手だ。

他にも自治会の役職や、
地元のソフトボールのメンバーを
指すこともある。

最近できた担い手も、もちろん、
担い手がいるに越したことはない。

しかし、最近できた担い手が増えたとしても、
昔からの担い手が不足していることには、
田舎に暮らす人々の誇りは取り戻せない。

ソフトボール大会は一瞬の出来事

地元の男子が増えて、
ソフトボール大会で優勝しても、
試合の当日は盛り上がれるが、
一瞬のことである。

日常的に思っているのは、
先祖代々受け継がれてきた
田畑が整えられていることや
集落や市街地の家の連なりである。

きっかけとして、
ソフトボールチームのメンバーが増えても、
増えたメンバーが
昔からの田畑を耕す
担い手にならなければ、
彼らは満足しない。


昔からの担い手の解消

結局のところ地方創生は
田舎で昔から行われてきた
集落維持のための担い手を
作ることに成果を見出さなければ
成功したとは言えない。

逆を言えば、
人口が減ろうが、
田畑や森、川の管理がうまく行えれば
地方創生は一定の成果を得られる

プロモーション動画や
観光パンフレット、
コワーキングスペースを作ることは
地方創生には効果が薄い。
そこには目立つ広告も
派手なイベントもいらない。

計画的に戦略を立て、
人口減少の中でいかに、
美しい里山を守っていくかが
地方創生なのである。

美しい里山の思わぬ効果

里山を美しく保つことは
想像よりも遥かに
お金を生み出す。

まずは災害の予防だ。
今日の都市部の洪水などの水害も
田舎の山の保水量が関係している。

大水害

スギやヒノキなどの保水力の低い木々が
山を覆ってしまうと、
水はどんどん川に流れ、
一気に都市部に水を流す。

また川の作り方によっても
都市部に大洪水をもたらす。

川の本来の姿は浅瀬があり
深い淀みがあり、90度づつ
蛇行しながら河口へと向かう。

しかし戦後の護岸工事や、
土留をコンクリートで
真っ直ぐにしてしまった川は
水のスピードを加速させ、
一気に海まで流れる。

車で例えるとわかりやすい。
アップダウンやカーブの多い道のほうが
おのずと速度が下がる。
逆に真っ直ぐな下り坂は
速度が出しやすい。

かつての美しい里山の
山や川の姿を残していれば
大水害をある程度、
防げたかもしれない。

山の管理

またスギやヒノキは
根っこが地上から1m程度の
浅いところまでしか届かない。
このような山では土砂崩れや地滑りが
起こりやすい。

そしてスギやヒノキは
木の実を落とさない。
そのためイノシシやシカ
サルといった獣は
山を降りてきて
人里の田畑を荒らす。

いわゆる獣害被害が起こる。
獣害の予防のために、田畑には
電柵や鉄筋の柵を作らねばならず、
一枚あたりの田畑の
手間とお金を増やしている。

美しい里山は節約家

これらの災害復旧や、被害の予防に
何十億円、何百億円のお金が
全国で動いている。

大雨や土砂崩れ、
獣害被害は、
パッと見ると天災であるが
実は人災である。

これらのお金は地方創生の
お金以外で動いているものであり、
美しい里山を維持することは、
莫大な額のお金を減らすことにもつながる。

そしてなにより
美しい里山の維持は
都市部や田舎に暮らす人々の
被害の及ばない
快適な暮らしを作ることにもつながる。

美しい里山は儲かる

日本人の美意識は
世界的に見ると
かなり低いと言われている。

しかし、Instagramや
携帯電話にカメラがついたり
一眼レフが比較的安価になったことで
以前よりも審美眼が育つ
世の中になってきた気もする。

美しさに価値が生まれる時
美しさはお金にもなる。

インスタ映えという言葉で
たくさんのカフェや観光地が
儲かる時代だ。

一泊数万円の高級ホテルは、
もれなく美しい景色を売りにする。

そして美しさの中でも
里山は作ったり、維持が大変なだけあって
希少性が高く、レア物である。
昔は当たり前だった里山の風景は
今では莫大な付加価値になっている。

田舎に足りないのは人口ではない

田舎の人口減少は、深ぼっていくと
実は人口減少自体が問題ではない。

美しい里山の維持が
できなくなっていることが問題であり、
里山が維持されないことで引き起こる
人災と、荒んでいく風景を
人々は嘆いているのである。

田舎で1番足りていないもの、
または、彼らが求めていることは

美しい里山を維持していく
知恵と行動力である。

その解決策は、
霞ヶ関の背広のお役人が
知恵を絞っても意外と解決できない。

畑の耕し方、ヨシの刈り方、
森の維持の仕方を知っている
田舎に暮らす人々が中心に
考えないとできないことである。

田舎で暮らす人々が
美しい里山づくりに
立ち上がることが
真の意味での
地方創生なのではないだろうか?

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