欲望の実現は掃除からno.2
人は豊かな暮らしを貪欲に追い求める生き物だ。快適なマイホーム、美味しい食事、高級な車にブランドバッグ。。。豊かな暮らしを手に入れるためにはたくさんのお金を稼ぐことが一般的だ。しかしそれだけで豊かになれないこともなんとなくわかっている。豊かな暮らしとはなんなのだろう。
「魅力」という「魔力」
世の中には魅力的なものが溢れている。直感的に追いかけていたら、あらゆる分野の魅力に惹かれて全てを手に入れたくなる。
美味しい料理、楽しい遊園地、美しいアート、レトロな喫茶店。体験だけでなく、美容グッズや健康的な食生活を送り、魅力的な自分を手に入れることもある。
好みに合わせて魅力を集め、貪欲に、いいなぁと思ったことをやる生き物だ。
社会的な「羨ましい」も求める
有名な会社に入り、お昼ごはんにおしゃれなカフェでランチをする満足感。みんなから羨ましがられる場所に行ったり、社会的に認められることも、とても好きな生き物だ。
しかし社会にとって「良し」とされるものを追いかけても、虚しさが残る時がある。虚しさを消し去ろうと質を高めることもある。スーパー銭湯ではなく人気の高級なスパに行ったり、より良い会社に転職したり、会社を立ち上げる人もいる。
体験や社会的立場の質を高くして、みんなが羨ましがるようなことをしてみたりもする。しかし社会的に求められているものを追いかける行為は、どこか寂しい。
世のため人のためも寂しい
世のため人のためになることをしても寂しい時がある。
例えば「仕事」。仕事は誰かの役に立っているはずで、その対価としてお金が払われている。学校で子どもを教えたり、サラリーマンで会社のために働いて、社会に貢献をしている。家事だってそうだ。家族のために料理や掃除をする。めちゃめちゃ誰かのために頑張っている。
誰かのためにしても満足感を感じないことがある。なぜだろう。気を紛らすために趣味を作り、カラオケで発散し、自分を慰めるのはなぜだろう。
逆に特別なことをしていなくても、家事や仕事で充実している人もいる。発散や慰めがなくても満足感を感じる人と感じない人の差はなんなのだろう。
自分がして欲しいことをやる!
自分や他人のために何かをするとき、損得勘定を捨てて、自分がされて嬉しいことをすると虚しく感じない。
言い方を変えれば、相手が喜んでいるかわからないけど、自分がされたら嬉しいことをすれば、充実した暮らしが送れる。
田舎の古民家に移り住んでみた
3年前、田舎の古民家で暮らしはじめた。東京という大都会の暮らしにストレスを感じたからだ。コンビニは徒歩1分。好きな美術展にも好きなだけ行けた。
裏を返せば、満員電車にぎゅうぎゅうづめにされ、嫌な思いをしながら運賃を払う。たどり着いたオフィスはコンクリートの雑居ビル。日中の太陽をほとんど浴びることなく、蛍光灯の下でパソコンに向かう。お昼の休憩時間は照りつけるアスファルトを歩きながらお弁当を買う。20代の男子にとっては満足に食べると1,000円弱かかる。夜が深くなって仕事場を出て、家に向かう。結局コンビニご飯で済ませて翌朝を迎える。
お金を稼いでどうなるんだろう?このままで人生楽しいのだろうか。仕事場を変えれば良くなるの?自分の実力がないから我慢するときなの?その判断は誰が下すの?
よくわからなかった。しんどかった。なので自分が知っていた都会じゃないところに移り住みたくなった。五万とある田舎の中でも好きな場所「愛媛県内子町」に行くことにした。
自分のしたいことはみんながしたいこと
十人十色という言葉があるが、逆も言える。美味しい料理はたいていの人が美味しいと感じる。ガスバーナーの青い炎と暖炉のゆらめくオレンジの炎だったら暖炉の炎を見つめたくなる。自分の感覚と世の中の感覚が一致するところもたくさんある。
自分の楽しいを突き詰めるのもいいことなのではないだろうか。愛媛の田舎町に暮らしながら「自分がして欲しいこと」を実現するかにこだわることにした。
できなくても自分を責めない
元々がそんなに実力のない人間なので、なにができなくても自分を責めないことにした。世の中に完璧な人間はいない。
全てうまくいくアニメの主人公でもない。全ての逆境に打ち勝てるスポーツ根性モノの主人公でもない。
社会的にできないこともたくさんある。ただ気にしていても仕方ない。メールのマナー、スーツの着こなし、電話の掛け方、企画書の書き方。何もわからないけど、気にしてても仕方ない。やりながら怒られながら、体得するしかない。怒られたらその都度、凹んでいても仕方ない。
ただただ、自分が我慢せずに生きられる世の中を少しづつ実現させていく。やることがたくさんあるから、なるべく効率は重視する。毎日のように凹むし、愚痴も影で言われるけど、仕方ない。凹むけど、凹む自分を否定しても仕方ない。二次災害だ。凹む自分も可愛らしいなと受け入れる。
今、自分のことを悪くいう人、受け入れられない人もたくさんいる。人が人を受け入れるのにはとても時間のかかることだ。5年後10年後、認められたらいい。
小さなことから始める
まずはじめたのは古民家の掃除。これは人に褒められるためにしているわけではない。社会的に良いことだと思ってしているのではない。自分の住処である古民家を掃除してきれいにしてより快適な暮らしを手に入れるための行為だ。
加えて、古民家の掃除を家先でやっていると地元の人が「偉いねぇ」と褒めてくれる。褒めてくれるついでに野菜や煮物をくれる。周りから「まじめそう」に見てもらえることは自己実現にとってものすごくプラスに働いた。
家先で掃除する男の子は閉鎖社会と言われる田舎のコミュニティに入り込む上での突破口となった。
なぜ、自己実現できないのか
世の中に家の前がきれいだと気持ちいい人がほとんどだ。しかし分かっていてもできない人もいる。自分の気持ちいいや嬉しいことを集めることにためらいを与えることがこの世の中には多々ある。自己実現を妨げる考え方を5つ並べる。
その1.:重要視していない
世の中において、自分の家がきれいであろうがなかろうがほとんど変わらない日常が流れる。きれいだと嬉しいけど、さほど影響が少ないから、やらなくてもいいやというパターン。
その2.:周りに引っ張られる
周りがやっていないのに自分がやらなきゃいけない理由がわからないパターン。隣がきれいにしてなかったから自分もやらなくていいや、といったやつ。
その3.:悲劇のヒロイン、ヒーロー
忙しいからそんなことできない、私はダメな人だから、と自分は他の人に比べて不遇だからと、悲劇のヒーロー・ヒロインになって、やらない理由を作る。
その4.:見返りを期待する
そんなことしても無駄じゃないか、お金を払ってくれたらやります!と、皮算用を叩く人もいる。見返りがないとできないタイプ。
その5.:過去のトラウマや他人との比較
誰かの家に比べて自分が汚かった場合にやる気がなくなり、やらなくなることもある。上には上の人がいることに絶望を感じるケース。
家先の掃除だけでなく、他のことにも言える。靴やスリッパを揃える、食器棚をきれいに並べる、などいろいろある。気持ちいいのがわかっているのにできない理由は自己実現をしたい自分の欲望に対して世の中の思想が勝っているときだ。
個性ある豊かな暮らし
自分が良いな、と思うことは十人十色だから、バラバラでいい。他人と比べて何かができてなくても落ち込まなくて良い。靴は揃えれても食器が並べられなくても良いのだ。
自己実現は人によっては、とても抵抗感のあることだ。なのでやらなくてもいいことではある。より豊かな精神状態を保ちたい人や今の暮らしよりも良くしたい人に薦めるだけの話だ。
究極、自分がいいなと思うものしか人は満たされない。しかし自分がいいなと「思う」だけでも満たされない。「実現する」と、より多くの充実感を得られる。
なにから始めたらいいのか
与えられるだけの世の中はどこかで虚しい。繰り返すと自分がすり減る。ごまかしてもごまかしきれない時が来る。自己表現をして、それが実現する世の中は楽しい。それが周りから評価されると、より一層嬉しい。じゃあなにから始めたらいいのか3つ並べる。
1.周りが求める没頭できるものから始める
「これをやってる時は別に見返りはいらない」「趣味だから」というものをやる。特に周りが喜ぶことだと評価されてやる気につながる。次のやる気に繋げるためにも自分の趣味で周りが喜びそうなことからやる。
2.日常の小さなことから始める
いきなり大きなことをすると失敗する。失敗するとやる気が無くなり、また与えられることを求めてしまう。また日常的に自己実現をしてないとストレスが溜まる。1ヶ月に1回実現しても、30日中、29日がしんどい。個人的には1週間に1回でも物足りない。達成感を常日頃から感じれるものがいい。トイレットペーパーくらい何気ないことから始める。
植物や畑はおすすめしない。維持が結構大変だからだ。せめて玄関先の草むしりくらいが継続性がある。そう思うと田舎のおいちゃんおばちゃんはすごい自己実現者たちだ。
3.「今」の延長から始める
今、自分が置かれている立場でできることをやる。自分がこうあったらいいなを与えられた仕事や家族の間に付け加えていく。
挨拶をいつもより丁寧にする。仕事場のお茶菓子にこだわる。お客さんにおまけを付ける。クライアントが喜びそうなことをする。友達に感謝を伝える。。。
日常的なので達成感を日頃から味わえるし、今すぐに始められるので無理する必要はない。お手軽に手をつけられる。
世のため人のためを利用する
社会貢献も無理に考えなくていい。あえていうのであれば、実現するモチベーションのために社会貢献を利用する感覚だ。認められたり、世の中的にいいことをした方が注目が集まり、実現する協力者が現れやすくなる。そのために社会貢献を利用するのだ。
いきなり、一緒に空き家の掃除をしましょう、と周りの人に声をかけても、「やってどうなるんですか?」「お金はもらえますか?」とやる意味を求められる。それが家の前で掃除を毎日している人に言われたら、「一緒にやってやるか」「よくわからんけど、頑張ってるもんな」とすんなり受け入れてくれる。
人間は頑張っている人間に甘い。応援したくなる。世の中がいいなと思っていることをすることは協力者が参加しやすい雰囲気づくりに役立つ。
しかし、あくまで自己実現だ。自分が豊かに暮らすことを実現するために、社会的にいいことをして実現しやすくするのだ。世の中的にいいことをするのは手段であって、目的ではない。
目的を見失うと、なんのためにやっているのかわからなくなり、虚しくなる。
皮算用はいらない
自分がしてもらって喜ぶことを誰かにするときに打算はいらない。そこに見返りを求めてはいけない。見返りが起こったときにそれは「サービス」であり、対価を計算してしまう。やらされた感が出てしまう。
見返りを求めることは悪いことではない。より充実した人生を送りたいのであれば、対価や見返りよりも、最優先は自分が喜びそうなことをやることが大切だ。見返りは後から勝手に付いてくる。
トイレットペーパーを三角に畳むのと、ではなかったときのトイレは、些細だけれども自分好みの世の中に変わっている。
家の靴を揃える。他人の食器も一緒に洗う。自分がされてて嬉しいなと思うことを日常から増やしていく。些細なことでいい。誰にも気づかれないかもしれない。お金にもならない。それでも少しでも自分にとって気持ちいいことが溢れる暮らしを自分主体で行うのだ。
突き詰めれば、商いになる
200円のパンが500円くらい美味しいと、嬉しい。え、こんな値段でこんなに美味しくていいんですか!と喜んでしまう人もいる。自分にとって嬉しいことを突き詰めれば、「人気」になり、「商い」としても成立する。
ここに儲けを優先してはいけない。あくまで自分の喜びを優先するのだ。どれくらいの値段でどんな場所でどういう風に売れば自分だったら嬉しいか。世の商品のこうあってほしいを追求するのだ。あくまで、とことん自己実現が優先だ。
食材にこだわったり、何度も試行錯誤して味を追求し、包装の包み方が丁寧とか、接客が丁寧とか工夫や技術、努力で自己表現を突き詰めていく。
おそらくものすごく儲かる人もいるはずだ。儲けが少ししかなくともその人はおそらく幸せだと思う。
リフレッシュに虚しさがなくなる
自分が嬉しくなることを実現するために、おしゃれなカフェに行ったり、リフレッシュする時間を作るのは必要な手段であり慰める行為でも誰かに見せびらかす行為でもない。視察や研修だ。
次は、よりおしゃれな空間を作りたいから話題のホテルに行こうとか、なんとなく面白そうだから人気のかき氷屋に行ってみようとか、戦略であれ、感覚的であれ「自分が嬉しくなるものを実現するため」というゴールがあれば、虚しさを感じる暇もなく、推進力という名のエネルギーが生まれる。
観察力と関係性が深まる
実現しようとすると、めちゃくちゃ観察する必要がある。カフェに行っても満足感よりもなぜ満足感があるか、に注意が注がれる。
自ずと、店主に質問をする。たどり着いた先の人とのコミュニケーションが深まる。より密度の高い関係性が生まれる。2回目に訪れても顔を覚えてもらってる可能性はグッと深まる。
大それたことでなくてもいい。ママ友と話すのでも、ご近所さんとの井戸端会議も「我が家の靴を揃えないのが直らないけどどうしたらいい?」となる。世間話にも深みが出る。そもそも世間話に深みはいらないかもしれないが、会話に抑揚が生まれる。
まとめ
人生が物足りないなぁと思ったら、意識的に自己実現を始めると楽しくなる。どう実現するかと言われたら、自分がされて嬉しいことをする。些細なことや自分が好きなことから始めるのが良い。さらに実現したことが周りから評価されると、続けるモチベーションにつながる。
自分好みの世界が広がれば、自分で世界を動かしているような気持ちになり、より充実した暮らしになる。そこには当たり障りのない人間関係ではなく、同志や仲間の輪が広がっているのではないだろうか。
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