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「ローマの休日」に見る記者と取材対象、密着の倫理 ~Z世代と探るジャーナリズム (2)

 王女と新聞記者の出会いと恋愛、別れをコミカルに描いたアメリカ映画「ローマの休日」は、1953年に公開されてから70年にもなるモノクロ作品だというのに、今もなお不朽の名作としてその人気を保っている。
 若きオードリー・ヘプバーンの演ずるアン王女は、親善旅行で訪れたローマで、儀礼上の責任を一方的に課せられるばかりの不自由な身の上を嫌になって、夜間ひそかに宿を抜け出し、まちかどで偶然出会ったアメリカ人男性、ジョー・ブラッドレーのアパートに転がり込む。
 翌日、王女は、まだあどけなさの残る一人の少女としてローマの街を歩き始める。横丁に屋台。靴店に果物店。人混みの喧噪と雑多。彼女の素性に気づく人はいない。それは王女にとって胸躍る初体験だった。ショーウインドーの写真に引き込まれて入った理髪店で、彼女は、その長い髪をカットしてもらうことで、チャーミングで自由な大人の女性へと変貌を遂げる。

 私にとって、中学生だったときにテレビで初めて見たそのシーンの強い印象が40年あまり後の今も消えずに残る。
 グレゴリー・ペックの扮するもう一人の主人公、ブラッドレーは、映画の設定によれば、実は、アメリカン・ニュース・サービス社の記者。遅ればせながら彼女の正体に気がつくと、ブラッドレー記者は、町歩きを楽しむ彼女の素顔を写真に撮影し、それを記事として発信しようと画策する。ところが、やがて、彼女に惹かれ、愛し合う関係になり、記事にするのを見送ろうと決心する。
 ローマを去るにあたっての王女の記者会見は、この映画で最も心を動かされる場面だ。
 親善旅行で訪れた都市の中で最も楽しんだのはどこかと問われたとき、王女は「どの都市もそれぞれ…」と言いかけて、公式回答をそれ以上そらんじるのをやめる。そして「ローマ!」と言い切る。確信に満ちた強い口調で「生涯、ローマでの思い出を大切にするでしょう」と断定し、記者団の中にいるブラッドレーに熱いまなざしを送る。
 これこそが、わずかな苦みはあるけど、最高のハッピーエンドだと、私自身、中学生だったときはそう思っていたし、この映画を観る人のほとんどもそう感じるだろう。

 しかし、その後、新聞記者となり、ジャーナリストとして生きる年月が長くなるにつれ、私は、この映画の結末におけるブラッドレー記者の行動にかなりの違和感を覚えるようになった。
 自分が記者であることを隠し、肥料など化学製品の販売を仕事にしているとウソをつき、取材目的を秘して一緒に観光し、王女の姿をライター偽装カメラで隠し撮りするのは、通常の人倫には反するだろうが、ジャーナリストの職業倫理からすれば、世の中の多くの人たちの知る権利に応えるため、すなわち、公共の関心事について公益目的で「潜入取材」を試みているのだと理解することができ、正当化できる。だから、そこに違和感があるわけではない。
 しかしながら、ブラッドレー記者はその揚げ句、取材対象であるアン王女と恋愛関係に陥り、私的な感情を優先し、最後、報道を差し控えた、その不作為については、それでいいのだろうかと首をかしげざるをえない。
 王女の自由な振る舞いとその奔放な姿は、多くの一般の人にとって、ぜひ読んでみたい記事であり、見てみたい写真となったに違いない。それなのに、それらをお蔵入りさせ、記者と王女の二人の胸の内にしまい込んでしまう、そんな読者への裏切りを美談にしていいのだろうか。
 特に見逃せないのは王女の母国の虚偽発表だ。王女の行方不明について、母国政府は「妃殿下は今朝3時に突然急病となられ、高熱でベッドに伏しておられ、本日の予定はすべてキャンセルされた」とのウソを国民に発表し、それがそのまま報道された。ブラッドレー記者はその真相を知っているのに、政府のウソを闇から闇に埋もれさせた。
 これは、ジャーナリストとして恥ずべき行いだ。

  • (この原稿は、2023年1月6日発売の月刊誌『世界』2023年2月号のために執筆し、ほぼ全文が「Z世代と探るジャーナリズム(第2回) 『ローマの休日』に見る記者と取材対象の倫理」とのタイトルで同誌に掲載された。)


「取材対象への私情」分かれた意見

 上智大学で新聞学科の学生のための授業を受け持つことになったとき、私は、学生と議論するのに「ローマの休日」はうってつけの素材だと考えた。
 映画やドラマ、小説に登場する「記者」を素材にして、その立ち居振る舞い、情報源との関係、取材手法、報道倫理を分析し、記者に対する社会の見方や期待・批判、それらと現実とのギャップを考察する。「ジャーナリズム特殊」の授業をそんな試みの場にすることとし、2022年秋、その第一号として「ローマの休日」を学生たちに視聴してもらった。
 もし仮にブラッドレー記者の立場だったらどうしますか、との私の問いに学生たちはさまざまに答えた。

「密着取材していたのにもかかわらず、恋心という私情によって情報を国民に提示しないのは、ジャーナリストとして権力監視の役目を放棄していると思った。もし私がブラッドレー記者なら、取材対象であるアン王女とは一定の距離を保ったまま取材を続けたと思う。」

(2022年 10月 22日(土曜日) 18:09に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 なぜ取材対象と距離を保つべきなのか、その学生はブラッドレー記者を反面教師として次のように述べる。

「取材対象と私情をはさんだ関係性を持ってしまうことにより、客観的かつ公正な記事が書けなくなってしまうからだ。」

(2022年 10月 22日(土曜日) 18:09に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 別の学生も、ブラッドレー記者の「職務放棄」を批判する。

「問題とすべきなのは王女が逃げ出したこと自体ではなく、そうならざるをえないような王室の公務体制であり、その是正のためにも記事を出すべきだと考える。」

(2022年 10月 20日(木曜日) 12:13に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 ジャーナリズムを学ぶ学生として、優等生的な模範解答だといえる。
 記者志望の男子学生の一人は、毎日新聞の西山太吉記者が有罪となった事件を思い起こしたという。
 判決などによれば、西山記者は1971年、外務省の女性事務官と男女の仲となり、その事務官に依頼して、外交公電のコピーを職場から持ち出させたとして翌72年、国家公務員法の秘密漏洩そそのかしの罪に問われ、逮捕・起訴された[1]
 政府のウソを暴く内容の公電であり、その公表には高い公益性があった。一審判決は無罪だった。が、最高裁第一小法廷は1978年5月、控訴審の有罪判決を確定させるにあたって、次のように西山記者を非難した。

 「当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で女性の公務員と肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたなど取材対象者の人格を著しく蹂躪した本件取材行為は、正当な取材活動の範囲を逸脱するものである。」[2]

1978年5月31日、最高裁判所第一小法廷、決定

 学生は「ブラッドレー記者と西山氏の状況には多くの相違点が存在する」と前置きしつつ、「情報を入手する、スクープを撮るという目的で、異性に近づき親密になっていったという点では共通している」と指摘し、その上で次のように言う。

 「ジャーナリストとして意図的に距離を縮めたのならば、最後までその職務を全うすべきだったのではないか。ジャーナリストは私情を挟んではならない。私自身が主人公だった場合、公私を混同させないよう最大限の注意を払う。たとえ実際に恋愛感情を抱いてしまった場合も、押し殺す選択をするはずだ。」

(2022年 10月 22日(土曜日) 06:27に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 ジャーナリストとして、建前はそうあるべきだろう。しかし、実際にそれを貫き通せるか疑問は残る。
 これらと異なる意見もある。

 「記者としては、私情を持ち込まず記事を仕上げる方が優秀だと考えます。しかし、一人の人間である以上、人に対しての感情を持ってしまうことは当たり前で、その部分は人間にとって非常に大切なものだと思う」

(2022年 10月 20日(木曜日) 13:55に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 「恋が芽生えてしまったら、それはもうどうしようもないではないか、というのが率直な感情だ。組織人としての立場より、いち人間としての感情を優先させるのは自然なことだ。」

(2022年 10月 22日(土曜日) 21:50に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 これらについて間違った論だとまでは私は思わない。
 現実的な落としどころとして、「自分だったら名乗った上でなんとか協力してもらうよう説得する」とか「最初から正々堂々と記者であることを伝え、王女の機嫌を損ねないように取材し、密着するだろう」という声もある。

 「せっかく良い関係性を築き上げてきているのであれば、それを上手く利用し説得しながら、インタビューや対話を行うべきだと考える。」

(2022年 10月 12日(水曜日) 16:14に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 たしかにそれができればベストではあるものの、それができる人はほんのわずかと、これら意見を疑問視する声も出てきて、意見は一致しそうにない。
 記事にするのが正解か記事にしないのが正解か葛藤していたという学生は、ほかの学生の意見や西山記者事件を踏まえ、「取材対象者との取材上の関係を超えた状態で知りえた情報を報道することは客観性に欠けているため、ジャーナリズムの意義に反していると考え、記事にすべきではなかったという結論に至った」という。
 これらの意見にはすべてうなづかされるところがある。そういうなかで私にとって「なるほど」と深くうならされる意見があった。

 「一過性のスキャンダルとして関係性を使い捨ててしまうよりも、共犯者として永続的な信頼関係を築く方が建設的である」

(2022年 10月 22日(土曜日) 21:50に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 すなわち、記事にするのを見送り、その代わりに、遠い将来にわたって情報を交換できる関係を王女との間に築くのを目指す、というのだ。

 「未知の世界である皇族社会との繋がりは500ドル出しても1000ドル出しても買えるものではない。『本当のこと』に少しでも近づきたいという思いがあれば、世間に消費される娯楽として記事を出すことの愚かさに思い至るはずだ。(中略)ブラッドレー記者は、彼女にとって下界への窓となるのかもしれない。」

(2022年 10月 22日(土曜日) 21:50に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 この意見を聞いて、ある学生は「目から鱗が落ちる思いがした」という。

 「確かに王女と良好な関係を保ち、確固たる信頼関係を築くことで、将来、王室の報道を独占する事ができればそのメリットは計り知れない。長期的な視点も大切だと感じた」

(2022年 10月 29日(土曜日) 15:17に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 時間をかけて取材対象の内側に人的関係を構築していくことを旨とする記者クラブ詰めの記者には、しっくりする考え方であり、私も納得できる。

王室・皇室の本当の状況を報道する必要性

 このほかにも、学生たちの指摘する論点は多岐にわたった。

 身分を偽った取材、潜入取材の是非。

 「身分を意図的に隠し王女に接近していく様子が打算的でとても嫌悪感を覚えた。徐々に惹かれあっていくというロマンス映画なのであれば(中略)正直に言ってほしかった。」

(2022年 10月 16日(日曜日) 12:42に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 「同時に、アン王女自身も身分を偽り、公務を放棄しているという点で国民を欺いていると感じた。」

(2022年 10月 15日(土曜日) 18:40に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 プライバシーとの相克。

 「新聞記者が取材対象者のプライバシーを侵害する形で近づくことはあってはならない」

(2022年 10月 8日(土曜日) 23:56に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 やらせ行為を指弾する意見もあった。

 「意図的にタバコを吸わせて、隠し撮りするということ(そして記事にするということ)は、たとえ週刊誌だとしても倫理的にまずいのではないか」

(2022年 10月 14日(金曜日) 15:55に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 王族や皇族の取材のあり方への言及もあった。

 「メディアの恐ろしさを感じた。現実世界におけるダイアナ妃の悲劇などから、王室関係者や著名人であったとしても、彼ら彼女らの行為は個人の自由であり、執拗に報じるべきではないと感じた。」

(2022年 10月 14日(金曜日) 23:11に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 逆に、報ずるべきとの意見もあった。

 「王女についての記事を書く=王女を批判するわけではないということに気づきました。実際、日本の雅子様やイギリスのダイアナ妃など、皇室・王室の体質に馴染めなかった方に対しての報道や世間の反応は、当時はわかりませんが、少なくとも今は否定的なものはあまりなく、どちらかというと擁護するような意見が多いと感じていて、王女について記事を書くことは王女を貶めることにつながるのではなく救うことになるという考え方もできると思いました。」

(2022年 10月 29日(土曜日) 15:31に学生から寄せられたリアクションペーパーから)

 皇室や王室で暮らす人たちも生身の人間である。周囲のプレッシャーに追い詰められてなのか、心を病む人さえいる。そうした良くない状況があるのだとすれば、公の場での問題提起も必要であろうという意見である。

日本の記者たちがいま突きつけられている課題

 記者らジャーナリストと取材先との関係性が問われる局面が近年ますます増えている。
 コロナ禍の緊急事態宣言で世の中の多くの人たちが外食や「密」の自粛を求められているさなか、検察当局の最高幹部と賭け麻雀に興じていた記者たちが、世間の強い批判を浴びた。
 ときの首相と夜の会食を共にする政治記者たちもいつも批判の対象だ。
 テレビ朝日の女性記者が夜の酒席で、福田淳一財務事務次官からセクハラを受けたというのに、それをテレビ朝日がみずから公表できなかった経緯にも、疑いの目を向けられた。
 記者たちはだれの顔色を窺って取材・報道にあたっているのか、という疑問が世間を漂っている。
 ニュースの消費者である読者、視聴者、ひいては一般の人たちのために取材し、原稿を書いているのではなく、取材先の政治家や官僚、大企業に気に入られるように記事を書いたり、場合によっては、書くべき記事を書かなかったりしているのではないか、そういう疑問である。
 一線を越えた関係は、記者や報道機関に対する国民の信頼を損なうだけでなく、西山記者事件のように、国家権力をつけいらせる隙にもなりうる。
 
 皇室報道のあり方も今後、従来にも増して議論の的となっていくことだろう。
 秋篠宮家の長女眞子さんと小室圭さんの婚約の見通しが2017年5月に報道されて以降、二人が実際に結婚し、圭さんが2022年10月にニューヨーク州の弁護士試験に合格するまでの5年間の、一部の週刊誌やテレビ局の報道ぶりは常軌を逸している。反論や提訴がないのをいいことに、プライバシーや名誉を侵害する違法な報道が少なからず見受けられる。
 将来、天皇の地位をだれがどのように引き継いでいくのかは確実に、国政上の重要な課題となっていく。その際、現状のまま報道の側が国民から愛想を尽かされる恐れはないのだろうか。現状のような情報環境のままでよいのだろうか。

 情報の流通を抑えるのではなく、正しい情報を届きやすくすることで、誤った情報を淘汰し、情報環境をより良くするべきだと私は思う。
 「皇室の情報発信も、正確な情報をタイムリーに出していくことが必要」「どこに正確な情報があるのかということが分かることも大事」との声が皇族から出ている。
 「記事を書くことは王女を貶めることにつながるのではなく救うことになる」という学生の意見はその点で参考になる。取材対象にあたたかなまなざしを注ぎ、肉薄しながらも、一線を画して記者としての独立性を保つことはその際とても大切だ。

 映画「ローマの休日」は、こうした日本のジャーナリズム喫緊の課題を思い起こさせてくれる物語でもある。(次回につづく


[1] https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail4?id=20516
[2] https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51114

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