安倍元首相への献花の列に何を感じた? ~Z世代と探るジャーナリズム (1)
花を手にした人たちの行列は、新宿通りに沿って下り方向と上り方向の二重にできている。
JR四ツ谷駅を麴町口から出てすぐの歩道にも、そして、駅前交差点を渡ってその反対側の上智大学北門前の歩道にも、その無言の列ははるか遠くへと続いている。
2022年9月27日の昼下がり、上智大学では秋学期の初日だったその日、久しぶりに登校した学生たち、あるいは、私を含む教員たちは、その行列を図らずも目にする。大学から2キロ離れた東京・北の丸公園の日本武道館で午後2時から安倍晋三元首相の国葬儀が執り行われようとしているのだ、と学生たちの多くはそこで思い当たる。
この原稿は、2022年12月8日発売の月刊誌『世界』2023年1月号のために執筆し、ほぼ全文が「Z世代と探るジャーナリズム(第1回) 安倍元首相への献花の列に何を感じたか?」とのタイトルで同誌同号に掲載された。
新聞社から大学に拠点を移して
私は、33年勤めた朝日新聞社をその年、2022年の3月末に辞め、4月から上智大学文学部新聞学科で働いている。
平成が始まった年に新聞記者となり、バブル崩壊の過程で次々と顕在化した経済事件を取材した。この12年近くは福島第一原発事故の取材にも携わっている。それら取材・報道の仕事にやりがいを感じ、それに情熱とエネルギーを注ぎ込んできた。だから、新聞の紙面にストレートニュースを出すことのできる立場でなくなるのには未練が多々あった。
しかし、これまでの仕事のプロセスや結果を「棚卸し」して整理し、朝日新聞だけでなく、もっと広くもっと自由にジャーナリズムを考え、その未来像を議論し、そのための試みを実践するためには、大学に移るのは良いチャンスだと考えた。この33年の間に、取材・報道やマスメディアに注がれる人々の目はさらに厳しさを増し、また、インターネットなど技術の進歩もあって、情報流通のありようは大きく変わってきているが、そうした社会環境の変化の中にあっても、変わらざるべき良いジャーナリズムがあるはずであり、その役に立つべく大学から発言していきたい、と考えた。
国葬の日の昼、都心で
9月27日正午前、その日の午後3時25分に始まる授業「時事問題研究」の準備のため、私は、地下鉄の半蔵門駅で電車を降りた。授業の主題である「時事問題」の一例として国葬を取り上げようと考えたのだ。
政府の事前の呼びかけに従って、私は、半蔵門駅から千鳥ヶ淵戦没者墓苑と皇居お濠の間を抜け、九段坂公園まで歩いて、一般献花の人たちの列に並び、花を手向けつつ、周囲を観察するつもりだった。
しかし、駅から地上に出ると、目の前の歩道にすでに行列ができている。どこが最後尾なのかよく分からない。献花会場から遠ざかる形で麴町1丁目交差点まで歩くと、そばで花を売る2軒の生花店のいずれにも、花を購入しようとする人たちの、これまた行列ができている。
献花の列はところどころ車道で断ち切られ、横から入るのが容易そうだ。故意にそんなズルをする人はいないだろうが、過失でそうする人はいるかもしれない。おそらく、ここが最後尾だと思われるあたりの見当をつけても、それがまたどんどん移動していく。最後尾(?)は路地に入り、献花会場から離れていく。見ている目の前で続々と人がそれに加わっていく。
献花をあきらめて、私はシェアサイクルの自転車にまたがり、隼町から半蔵門、九段坂上、三番町、二番町、四ツ谷駅前へと走り、写真を撮って回った。
東京都心の路地を縫うようにくねくねと行列は蛇行している。地図上の直線距離は2キロに満たないものの、行列そのものはその数倍になっているのだろうと思われる(行列の実際の長さに関する報道や発表はその後も見当たらない)。
九段坂上の靖国神社のそばに来たとき、坂の下の方向から遠くに「コクソウ、ハンタイ!」と唱和する声が聞こえた。
しかし、私が自転車で走り回った限りでは、声を上げて国葬や献花に反対する人の姿は見なかった。「顕正新聞『安倍政権八年の悪政』特集号」の冊子を行き交う人たちに差し出す女性の姿は幾人も見たが、彼女たちは声を出すのではなく、あえて静かに礼節を保とうとしているようだった。
国葬が執り行われるのと同時刻の教室で
その日の「時事問題研究」の授業で学生たちにそれらの写真を見せながら、私は、「並ぶ人の列を一直線にするとものすごく長くなってしまうので、警察のほうで、都心部のビルとビルの間をアリの行列のように、はわせているようです」と説明し、「皆さんはどう思ったか」と問いかけた。
ムードルという名前の情報システムを通じて、学生たちの反応は文章の形で次々と寄せられる。授業に対する学生のリアクション(反応)を示す小論文(ペーパー)の意味を縮めて学生の間では「リアペ」と呼ばれる。上智大学でこの4月に教え始めて以来、そのリアペに目を通すのは毎週の私の楽しみだ。学生たちの文章には必ずといっていいほど、ハッと気づかされる新鮮な視点や中高年男性には考えつくのが難しい独自の分析が含まれているからだ。
献花の列を目のあたりにした学生の多くはこのように感じているようだ。次のような意見もある。
こうした意見が出てくるのをなかば予測していたかのような考察もある。
同じサイレントマジョリティーであっても、国葬賛成派ではなく、国葬反対派に目を向けた考察もある。
とはいえ、行列を目の当たりにして、国葬に至るまでのマスコミ報道との落差を感じた学生が少なくない。
国葬の翌週の教室で
翌週10月4日の授業で、私はこれらの意見を一つひとつ読み上げた上で、「現在志向バイアス(Present bias)」という言葉を紹介した。
人間は目の前にあるものを過大に見る傾向がある。行動経済学などの分野でよく知られている心理的なバイアスの一つだ。
政府の事後の発表によれば、2022年9月27日、一般献花に訪れたのは2万5889人だった。
一方、1967年10月31日に執り行われた吉田茂元首相の国葬では当時、「日本武道館につめかけた一般会葬者は約3万5千人(警視庁調べ)にのぼった」「都心の沿道には7万余りの人が見送った」と報道されている(1967年10月31日の朝日新聞夕刊11頁と翌11月1日の同朝刊15頁)。
ロックミュージシャンの忌野清志郎さんの告別式(2009年5月9日)には4万2千人が参列した。
単純に比較できるものではないものの、2万6千人弱はそれらの数字より少ない。
読売新聞による9月2~4日の世論調査によれば、国葬の決定を「評価する」は38%、「評価しない」は56%。同月19日の日本経済新聞に掲載された同紙の世論調査の結果によれば、国葬賛成は33%、反対は60%。反対する人が賛成する人の倍近くに上っている。
国葬が終わった後の世論調査でも、この傾向は変わらない。共同通信が10月8~9日に行った世論調査によれば、国葬を「評価する」「どちらかといえば評価する」が37%、「評価しない」「どちらかといえば評価しない」が62%だった。
国葬を評価しない国民が多数であるのは厳然たる事実だ。
距離によって角度によって見え方は異なる
事実というものは多面体である。
切り取り方によってその断面の形はさまざまだ。どこまで肉薄するか、どこまで離れるかによって、同じ対象物が巨大な壁のように見えることもあるし、小さな点のように見えることもある。
だからこそ、事実は、多角的・多層的に見る必要がある。
と同時に、報道にあたっては、大胆に断面を切り取って、真実の一端として、それを受け手に提示することがあってもいい。それらもまた客観的な事実であり、別の視座に気づかせてくれる、重要な情報だ。程度の差こそあれ、見ることができて、報道されているのは、事実のある断面のある一部である。だからといって、それを偏ったものと決めつけてシニカルに見たり、軽視したりするべきではない。
国葬に合わせて受け付けられた一般献花に2万6千人近くの人が訪れた、という事実は歴史に刻まれていくだろう。学生たちが見たその人たちの行列は、その、かけがえはないけれども、小さな一断面だ。それは、世論調査の結果を疑問視したり反対の声を過小評価・異端視したりする根拠にはならない。
中国人留学生が見たアフガニスタンの人たち
中国人留学生のリアペが特に私の印象に残る。9月27日午後5時過ぎ、その学生は授業終了後に献花の列を観察したという。
この留学生が撮影した写真によれば、タリバン支配ではなかったかつてのアフガニスタンの国旗とともに白い紙を掲げた一団の人たちが列をつくっている。その白い紙には日本語で次のように書かれている。
その学生によれば、彼自身、中国から日本に留学できたのは、安倍政権の「30万人留学生計画」と関係しているという。
彼は次のようにそのリアペを締めくくった。
ジャーナリストとして私自身、「桜を見る会」前夜祭をめぐって安倍氏の秘書と安倍晋三後援会が虚偽の収支報告書を国民に公開し、安倍氏が事実と異なるウソ答弁を延々続けた問題について、「安倍元首相秘書『シビアな問題になりかねない』と違法な不記載」などの原稿を書き、世の中に発表したことがある(「確定刑事訴訟記録の閲覧で判明 首相秘書の犯行動機と司法の怠慢」『Journalism』2022年7月号(386) pp.12-19)。そうだからこそ、どのような暴力も許さず、自由と民主主義を守る、そんな決意を表す場として、安倍氏の国葬や安倍氏のための献花に意義がある、と中国人である彼が言うのは興味深い、と感じた。
ジャーナリズムについての学生らとの対話
私は教室で、学生たちに「皆さんとのやりとりを雑誌論考など社会に発信したいと思案しています」と呼びかけており、また実際、「オフレコ」の指定がない多くのリアペについて、その抜粋を学生全員と共有している。そして、毎回の次の授業で私からリアペを紹介しつつそれにコメントし、可能ならばその内容をさらに深く掘り下げようと努めている。それら私のコメントや他の学生のリアペへの反応が再びリアペで寄せられることもしばしばあって、質の高い深い対話が成り立っている、そんな実感と手応えがある。
この連載「Z世代と探るジャーナリズム」では、都心の大学の新聞学科で教員を務めるバブル世代50代半ばの筆者と、21世紀初頭もしくは20世紀末に生まれた「Z世代」の学生たちとの対話を素材に、日本とジャーナリズムについて考えていきたい。(次回につづく)
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