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「民藝の100年展」

大分、前の記事になりますが…

 2021年10月から2022年の2月半ばにかけて、東京国立近代美術館にて開催されていた、柳宗悦没後60年記念「民藝の100年」に行ってきました。この展示は、民藝運動の父とよばれた柳宗悦らが蒐集した、陶磁器、染織、木工、籠など暮らしの道具類やそれらにまつわる写真、映像、出版物など同時代の資料を一同に集めた大きな展示で、とても見応えがありました。(私は一度で消化することができず二度会場に足を運ぶ事に。)コロナ渦での開催にも関わらず、老若男女幅広い層のお客さんで賑わう様子は、当時の民藝運動による時代を超えた影響力の強さを感じることができました。

 もともと民藝品には興味があり、旅先でその土地の窯元を探しては、器や花器等を購入したりしていました。小心者の私の場合、それらの大半は来客用となり、普段使いは専ら食洗機対応の皿になるわけですが…。しかし柳宗悦は、この普段使い、つまり生活道具としての民藝品に“用の美”と称した新たな価値を見出しました。更にはその素晴らしさの発信(美術館・出版)、生産・流通、農村地方の経済改善にまで尽力したそうです。モノをみる審美眼に加え、今でいうキュレーションや編集、マーケティングの能力にまで長けていたというのだから、とんでもない才能の持ち主であったようです。

 一方、私が敬愛する白洲正子がこの民藝運動をどの様にみていたかというと、その視線は意外にも冷ややかで、柳の功績を称えながらも、その影響力の強さを宗教的とまで表現し、個人が独自の感性をもって評価し、所有する。という本来あるべきモノの見方を奪っているのではないか、というような事まで言っています。(『対話「日本の文化について」』,『白洲正子全集 別巻』)これは、独自の審美眼に加え、豊富な経験と知識を持ち合わせた彼女だからこそ言える科白ですね…。モノの選択をする時、とりわけ高価なモノを選ぶ時など、モノと真剣に向き合う前に、その道のプロフェッショナルや、知識人の評価で判断してしまう自分が情けないです…。正子の様にはなれなくとも、せめて、普段から自分の直観や感性を鍛え、沢山のモノやコトに触れる機会を意識して確保したいものです。

 ところで、我が家にある沖縄の読谷で買ってきた、やちむんの平皿は食洗器にかけても今のところ大丈夫なようです。
(これが、現在の私の器に対する価値基準。—沈—)