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【長編小説】いつかの月ひとめぐり # 4

◇この物語はフィクションです。不定期更新、全31話予定。


第4話 淀む

 エアコンのファンが回転している。その風切り音と窓ガラスの向こう、飛ぶ鳥の囀りがやけに大きく聴こえる。閉じた引き戸の向こう側からの雑音もない。唾を飲み込む音でさえクリアに響きそうな空間で、俺と兄貴はじっと睨み合っていた。

「……江角えすみセンセがさ、あんま興奮するなって言ってたぞ」
「お前の話をすると僕が興奮するって? どんなカミングアウトをするつもりなんだ」
なんもねぇよ。兄貴が無事なら俺は今日にでも長野に帰るつもりだぜ」
伍香いつかを置いてか。会ったなら分かったろ、あの子はお前が来るのを待ってたんだ。いつか迎えに来てくれるって信じて」
「そんな話は……。今の俺の生活に伍香を養う余裕なんてない。4年前にラインで伝えたあの人とまだ一緒に暮らしてる。一番辛い時に俺を支えてくれた大切な人と」

 兄貴はふっと目を伏せ、ゆっくり息を吐いた。再びの静寂と、広がる緊張感。いや俺が勝手に緊張してるだけか。

「戻っては来られない、か」
「俺は環境の変化に弱い。うつの症状が治まるまで、また辛い思いをするのはイヤだ。それにそんな姿を伍香に見せたくないしな。また妙な渾名あだなをつけられちまうよ」
「親父の家でしばらく休んだらどうにかならないか。それかリモートでやれるような仕事だったら……」
「辞めたんだよ。4月で」

 兄貴が咳き込む。ナースコールのボタンへ手を伸ばした俺の動きを、病人が右手を前に出して牽制した。

「ゴホッ……! だいじょ、ぶ、……だ。」
「おいおい興奮するなって言ったろ。もぅ、この話はやめよう。どんだけ話し合ったって俺の気持ちは変わらねぇんだからさ」
「そう、か。……残念だ。僕は倒れ損ってことになるかな」
「なんだよ倒れ損って。倒れて得する奴がいてたまるか」
「フッ、せっかくお前が帰って来たのに。伍香がまた泣き喚くかもしれない」
「泣くわけないだろ。どうせニゲオヤジがまた逃げたァって、郵便配達の若い兄ちゃんにでも言いふらすんだ」
早坂はやさかくんのことか?」
「名前までは知らねぇけど。初対面でいきなり俺の悪口言いやがった失礼な奴。次ぃ会ったら絶対……」

 なんだかドンドン話が逸れていく。これ以上詮索されても答えにくいからそれでいいんだけど、あの配達人の顔を思い出したらムカムカしてきた。

「俺、いっかい家に戻るわ。必要な物をメモしてくれたら午後に持ってくるよ。そんで帰る。どんな風に言われようと夜には帰るからな」
「はいはい。なら、書くから紙とペンをくれ。江角さんがそこのテーブルに置いといてくれたはず」

 兄貴が震える手で紙に文字を並べていくのをぼんやり眺める。案外あっさり引き下がったなぁとか、伍香になんて言って帰ろうかなとか、頭の中を色んな考えがぐるぐる廻り続けていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 1階の受付で事務員さんへ、午後もう一度面会に来ると伝え、未だ井戸端会議中のおばあさんたちを横目に病院を出た。やはり気温はぐんぐんと上昇してきてて、実家までの道中にある古めかしい自販機でコーラを買う。しばらくの間うなじに当てて冷やし、そのあとキャップを開けてゴクゴク、喉を潤した。汗をかいた身体に炭酸が染み渡る。たかが二酸化炭素をこんなにも美味うまくしてしまう初夏の陽射しに乾杯。

 なんてちょっとした遊び心を加えながら、かつて棲家だった昭和チックな家まで戻ってきた。なんとなく裏へ回り、木扉の鍵穴にほぼ新品の鍵を挿して開ける。扉を引いて開くとそこはすぐ台所で、流しには母さんの姿があった。

「あらお帰りぃ。お兄ちゃん、まだ起きない?」
「俺が着いた頃には起きてたよ。普通に話して、必要な物もメモしてもらった。ほらこれメモ……」

 母さんが口をポカンと開け、包丁を持ったままふらふら突進してくる。

「ちょ、包丁! 怖ぇって!」
「あ、ゴメン。ビックリしちゃって」

 やられるかと思った。心臓が、かつてないほどバクバク大きく拍動している。やっぱ早く長野に帰りたいなぁ。

 ダイニングチェアに腰掛け、母さんが落ち着くのを待って、状況の説明をした。今のところ特段悪い病状は見られないこと、膠原病こうげんびょうについて、その病気を罹患しても問題なく社会生活を送っている人がたくさんいること。可能な限り真実を、不安に感じさせないよう注意して言葉を選びながら伝えた。母さんは一見すると真剣に聴いてる様子だったが、どうせまた同じことを江角先生に問うのだろう。昔からそういう人だ。天然というか何というか、左から右へドンドン抜けていく。それが分かっててもとりあえず説明し続けたけど、あとのことは知らねぇ。

「……そんなわけで、兄貴のアパートに行きたいんだ」
「ふっふっふ。ちゃんと合鍵を貰ってるわ。ちょっと待ってねココに。あら、あらあらぁ? 引き出しに入れといたはずだけど、おかしいわね」

 これだよ、ったく。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 結局、合鍵が行方不明なため兄貴のアパートには侵入できず。もう一人の住人である伍香の帰りを待つこととなった。もし15時くらいにあいつがバスで帰ってきて、鍵を借りて隣町のアパートまで行き、メモに書かれた物資を病院へ届けるとしたら、自転車を使っても夜までかかるはず。この時点で今日中の長野帰還が無理ゲーになってきた。

 夜行バスに乗るという手もあるのだけど、そこまでして帰るほど急ぎの用事もないわけで。なんせこちとら無職なんだ。あえて帰る理由としては、病院で兄貴にそう宣言してしまったから。こんなことになるのなら、帰れたら帰るわと軽口っぽく語っておけばよかったのにと反省しきりだ。

 とりあえず悠希ゆきに、帰るのは明日になりそうだとラインしておいた。俺の動向なんて知ったこっちゃないんだろうけど、もしも僅かにふんわりとでも心配してたらイカンと、念のための連絡だ。既読になるかどうかすら割とどうでもよかった。兄貴には大切な人だなんて言っておいて実際、大切に想っているのかは自分でもよく分からない。でも俺の帰る場所はやっぱり悠希だと……だからァ、俺はいつまでも何イジイジしてんだ気色悪りぃなアホか。

 左手の中のスマホが鳴動し始めた。画面は「実田さねだ悠希ゆき」の4文字を映している。メッセージの返信でなく電話なのが、ほんのり不安感を与えてくる。

「……おぅ」
『なんか元気ないね。お兄さんヤバイの?』
「元気だよ。兄貴も、俺も」
『そうなんだ、良かった。あ、ねぇ明日もそっちにいるの確定?』
「うーん、まぁ、どうだろう。多分」
『歯切れワルっ! 男なんだからハッキリしなさいよ。どっち? いるの、いないの』
「えぇ、……わぁった、いるよ! 明日までここにいる!」
『ちょっと30秒くらい無音になるけど、待っててね』
「は?」

 あちら側の音声がノイズ含めて一切聴こえなくなった。なんだろ……誰かと一緒にいる? そもそも平日だから職場に居るんじゃないのか。って俺は何を心配してんだ。あいつが何処にいようと誰といようと、どうでもいいことだろう。

『━━はい、お待たせ。じゃあね』
「え、おい」

 そのまま通話が終了してしまった。何なんだ。なんなんだよ一体!

 スマホを床に投げつけようとして、まだ分割払い24か月の13か月目だったことを思い出し、ひょっこり現れた理性が左腕を止めてくれた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 タブレットやノートパソコン、追加の着替えにタオルケット、うがい薬や目薬なんかの細かい物まで、メモ通り指定の黒いボストンバッグに入れた。母さんの自転車を借りて病院へ届けたのが夜の19時頃。面会時間はとっくに終わっており、バッグごと夜間の警備員さんに託すかたちとなった。それでまた自転車をひぃこら漕ぎ、19時30分過ぎようやく実家に舞い戻る。自転車を玄関の脇に置いていると、待ち構えていたように小さな影が暗闇からヒュッと顔を出した。

「パパ、ヒロくんどうだった?」
「さっきは会えなかったけど、特に問題ないらしい。明日から連休だろ。お前も明日、病院行くか?」
「うん。でもパパ、帰るんじゃなかったの」
「明日までは居るよ。そう言っちまったからな」
「誰に?」
「……えと、あれだ。同……じゃなくて、カノ……」

 言い淀むうち、疑いの視線を向けられてそれきり言葉が継げなくなる。

「もういいよ。お夕飯、温め直してくる」
「あ、はい。お願いします」

 あー、なんで敬語。相手は娘だぞ。今日は俺ホントもうダメだ。


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