熊野は神武が天皇になる資格を得た場所

『日本書紀』は『古事記』よりはるかに詳しく神武天皇の熊野での行動を伝えています。地元ではこの記述を基にしてたくさんの伝承が残されています。神武天皇がとても身近な存在として。しかし戦後の歴史学では神武天皇の存在が否定されてきました。しかしながら現在でも皇室では重要な儀式として橿原市にある神武天皇陵に参拝して、初代天皇に敬意を表しています。実在したかどうかは別として、熊野を含めた神武天皇の伝承に光を当てて見ることで、何らかの史実が浮かびあがってくるということを知って頂きたいと思います。
『日本書紀』では、熊野で暴風に遭って二人の兄が亡くなります。熊野市には二人の死骸を見つけて祀ったという神社があります。三毛入野命は故郷の高千穂に帰ったという伝承もありますが、いずれにしてもここで二人の兄が脱落して、神武は皇子のタギシミミと二人で軍勢を率いることになります。そして暴風のあと荒坂津、別名丹敷浦に上陸し、丹敷戸畔を滅ぼしたあと気を失います。神武天皇の上陸地だと伝える場所はたくさんあります。ただ丹敷戸畔は那智海岸の浜の宮に地主神として祀られていますから、丹敷浦は那智かもしれないです。
タケミカヅチがタカクラジに剣を託す場面は『記』のほうが詳しく書いています。剣の名前を3つ挙げていることからも『記』はこの剣を重要視しています。
『記』ではタカミムスヒがアマテラスと相談してタケミカヅチにもう一度下界に行くように言ったり、八咫烏もタカミムスヒが遣わします。『紀』ではどちらもアマテラスの単独行動です。『記』ではタカミムスヒの存在が際立ちます。
八咫烏は、熊野の神の使いとして重要な存在ですが、『記』のほうがその役割を重要視しています。神武軍は八咫烏の先導を受けて進軍しますが、『紀』では実際の行軍を指揮するのは大伴氏の遠い祖先の日臣であり、無事に難所を突破できたのは日臣の功績であるとして道臣の名を与えます。これには大伴氏の伝承が反映されています。
神武軍が紀伊山地を突破して到着した場所も、『記』では吉野川の下流(現在の奈良県五條市付近?)となっていて、そこで三人の国つ神に会った後に宇陀に行きます。そしてエウカシ•オトウカシのエピソードになりますが、『紀』ではダイレクトに宇陀に到着します。新宮から熊野川•十津川のルート、現在の国道168号線で行くと『記』にある吉野川の下流に着きます。一方熊野川から北山川沿いの国道169号線で行くと宇陀の近くに着きます。
『紀』の記述で最も特徴的なのはアマテラスの神武への肩入れです。『記』ではタカミムスヒの存在が大きいですが、『紀』ではアマテラスが単独で神武を支援します。その契機となったのは、暴風で二人の兄が脱落してから。それ以前のイツセの負傷の際にもアマテラスは行動を起こしていません。
私は『日本書紀』の熊野のストーリーは、神武が天皇になる資格かあるかどうかのテストだと考えます。そしてそれに合格したからこそアマテラスは積極的に神武への支援をはじめたということが読み取れます。
『記紀』では最初から神武が後継者であったように書いていますが、聖徳太子ですら皇太子であったかどうか疑わしいとありますから、神武が最初から皇太子であったとは考えられません。テストに合格して国の指導者にふさわしいとなったからこそ、アマテラスが積極的にサポートするようになったのであり、そしてその場所が熊野だったということ。それを『日本書紀』の編纂者は言いたかったのだと思います。


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