5月28日「恥も外聞も書も捨てて、タコ食べよう。」
お題:タコ、恥、金子みすゞ
2021年5月28日の日記。
恥はかき捨て、とは聞くがやはり恥をかくのは苦しくて、慣れるには相当な忍耐力が必要である。
少し前、とある失敗をしてしまいあちゃーと茫然としていたのもつかの間、知らずの間に悔しさがこみ上げこっそりと泣いてしまった。ポトリとカーペットに落ちた涙の染みが、泣く私を冷静に見つめて、ちょっと引いていた。俯瞰的に見た泣いている自分はバナナを失って、もしくは故郷を懐古しシクシク泣いているチンパンジーに似ていた。泣いているチンパンジーは見たことないから想像だけど。泣いている人を俯瞰的に見る機会がドラマや映画しかないので、俳優のように美しく泣いていると思い込んでいたが、実際は憂いを帯びたチンパンジーだった。泣くときですら自分に陶酔していたのが本当に恥ずかしい。
その日の夜スーパーへ行くと、鮮魚コーナーでタコが売られていた。
タコだったらこんな羞恥を感じることもないのかなあと、しみじみ帰宅した。タコには脳みそがなかった気がしたので、感情もないだろうと思ったのである。しかしタコについて調べてみたところ、「タコは中枢の脳1つと腕に小さな8つの脳、合計で9つの脳を持つ生物だと考える研究者もいます」という一文が飛び込んできた。まじかよ。
タコを舐めきっていた自分がまた恥ずかしくなった。金子みすゞ気取りで「私とタコと恥と」なんて謳っていた数分前の自分がひどく愚かで、少し可哀想になった。
また調べていくと、タコは表情の先駆けしてた説が出てきた。うそだろ。
(詳しくはこちらから↓)
https://toyokeizai.net/articles/-/399212?page=3
自分たちのコミュニティで生きていると、どうしても自分達を客観的に見ることができない。環世界とかいうやつだ。客観視できないものだから、自然と自分たちの種族が一番優秀だと思い込んでしまう。他人を揶揄する際「このはげタコ」や「タコ野郎」という言葉を使うことが何よりの証拠だろう。井戸の中の人間タコを知らずである。ちっぽけな一つの脳みそで環境を支配した気になっている愚かな人間を、タコたちは一体何を思い、鮮魚コーナーから見つめているのだろう。
ところで、あんなに賢いタコが何故愚かな人間に黙って食べられているのか些か疑問だった。しかし今宵、一つの結論に達した。タコは人間に食べられることによって、人の細胞の一部となり、人間の身体を乗っ取ろうとしているのではないか。いや、もうすでに乗っ取っているかもしれない。これを書いている私も、読んでいるあなたも既にタコなのかもしれない。なるほど。表情の祖先であるタコが自分なら、感情を思い切り表に出してもいいじゃないか。恥がなんだ。恥じたなら恥じた顔をすればいい。だって私たちは皆タコなんだから。そう思うと少しポジティブになれたので、私は思い切りスキップをし、箪笥の角に小指をぶつけて少し泣いた。
一昨日、美容院に行った。シャンプー台から元の座席に戻る際、雨の日ということもあり湿気の張られた床で、つるりと滑りそうになった。間一髪踏みとどまったが、安定を求めた結果四股を踏むような体勢になった。勿論近くに美容師さんもいて「ワッ、大丈夫ですか」と声をかけてくれたが、もう途方もない羞恥に、蚊の鳴くような声で「だ、大丈夫です」と答えた。座席に戻り正面の鏡を見ると、マスク越しにもわかるほど真っ赤な顔が映っていた。その姿は茹でたタコに似ていた。どうやら私は形から入るタイプらしい。