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世界にアクセスするための鍵、リベラルアーツ

深井龍之介さん、野村高文さんの著書。


僕は、ものごとを「どこから見るか」がリベラルアーツだと思っています。
そしてこの観点は、多ければ多い方がいい。1つの視点からだけではなく、あらゆる視点から社会と自分の人生を見ることで、ものごとには多面性があることを認識できるからです。

深井さん

深井さんらしいなと感じる冒頭。
本書では、様々な学問の専門家との対談形式により、今までにない視点を気付くキッカケを与えてくれる。

  • 物理学

  • 文化人類学

  • 仏教学

  • 歴史学

  • 宗教学

  • 教育学

  • 脳科学


個人的に興味深かった箇所をいくつか。


異なる3つの「理解する」

物理学のChapterで北川拓也さんが語っている3つの「理解する」。

  • 数学では、分類すること

  • 物理学では、予測すること

  • 工学では、欲しいものを実現すること

学問(視点)によっては、「理解する」という言葉の意味が異なる。
これは学問だけではなく、ビジネス、ないしは日常生活でも同じようなことが言えると思う。


「〇〇しておいて!」と話をしても、 

  • Aさんにとっての「〇〇」は、「〇〇△」かもしれないし

  • Bさんにとっての「〇〇」は、「△〇〇」かもしれない

僕らはよく「認識の齟齬が起きた」「ちゃんと指示しなかったから」だと決めつけるが、そもそも各人のバックボーン・視点によっては、「〇〇」の捉え方・見方が異なる。という前提条件が抜け落ちている気がする。 


何が言いたいかで言うと、
自分にとっての当たり前は、他人にとっての当たり前ではない。
という事をこの箇所から感じた。
(本文では別にこのような文脈ではないです)


当事者だけと、観察者でもある

飯嶋秀治さんとの文化人類学のChapterより。

文化人類学におけるフィールドワークは、現地のコミュニティで当事者かつ観察者として2年間過ごす。

おそらく2年間そのコミュニティに所属すれば、当事者意識は芽生えるだろうが、観察者としての視点を常に持ち続ける・意識し続けるのはすごいなと思う。

まさにコレは「メタ認知」である。

 

実際、自分が所属する組織に対して、客観的な視点から評価できている人は、どれぐらいいるのだろうか?


世の中の出来事は「すべて唯識」である

松波龍源さんとの仏教学のChapterより。

そのためには苦の正体を知らなければならないと考えた結果、苦の発生源はエゴだった。
 つまり、何かに期待するから、失望、つまり苦が生じるということです。「こうであってほしい」と期待するけれども、目の前に現れている現象は、必ずしもそうじゃない。そこに人間は一喜一憂するのだ、と御釈迦様は気づいたんです。
 だから期待してはいけない。そのこと自体に実態がなく、さらに自分さえ実体がないのだから、実体がない私が実体のない他者に対して「こうあってほしい」と願うのは愚かである。
 ものごとは原因と結果から導き出されるのだから、その結果として現れた目の前の現象を冷静に見なさい。それによって苦から脱することができるというのが、仏教の考え方です。

松波さん


最近、仏教の教えをはじめとする東洋哲学の思想にハマっているが、つらい局面に陥った時、非常にロジカルに解決策を教えてくれている気がする。

もちろん頭で分かっていても、それを自分の根底に落とし込むのは、中々難しいし、それこそ修行の世界になっていく。


それでも唯識の考えを知っているか知らないかでは、雲泥の差があると思う。
少しでも仏教の考えをインストールできるように、もっと勉強していきたい。


無知の知

アウトプットとしては、3つに絞ったが、全体を通して非常に勉強になった。まだまだ知らない事は多いし、学びたいと思う事も増えた。

様々な分野を勉強していきながら、多くの視点を身につけていきたい。


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