クラブミュージックの歴史

1. クラブミュージックの起源

 クラブミュージックが誕生したのは1960年代である。それまで人々はダンスホールでバンドの生演奏をバックに踊っていたが、第二次世界大戦が始まるとそれも難しくなり、代わりにレコードがかけられるようになっていった。
 とりわけ、現在まで続くクラブミュージックの歴史の原点となっているのは、当時のアメリカ ニューヨーク(NY)にあったゲイ・カルチャーと言えるだろう。当時NYではゲイ・バーや同性同士のダンスが違法だった。そうした中で、1969年に先駆的DJ、David Mancusoが自宅の屋根裏で開いたプライベートなディスコ・パーティが、アンダーグラウンドなクラブミュージックの原点となっている。彼が作ったゲイ・カルチャーの生命線は同性愛者の解放運動を過熱させ、同年の「ストーンウォールの反乱」によってNYの厳格なダンス規制法を撤回する動きが広がった。そして、翌年の1970年に開かれたヴァレンタイン・デイ・パーティ‘Love Saves The Day’は、当時続々と誕生したクラブの手本となった。

2. クラブサウンドの形成

 クラブサウンドの形成に貢献した人物として2人をとりあげる。
 まず1人目は、Earl Youngである。主にドラマーとして活躍していた彼は、バラードだった「The Love I Lost」の速度を上げてハイハットのリズムパターンを加えた。これにより、彼は‘ディスコグルーヴ’を生み出した。1973年にリリースされた「The Sound of Philadelphia」は、その圧倒的なインストゥルメンタル・セクションと安定したビート、スリー・ディグリーズのセクシーなバックボーカルによって、クラブミュージックにおけるヒットの方程式をつくった。
 2人目は、Tom Moultonである。彼はリミックスと12インチ・シングルを生み出した人物である。彼は、曲の合間に人々がダンスフロアを離れないように連続ミックスを作成したり、ポップソングを通常の3分よりも長く引き伸ばしたりするなど、当時のクラブミュージックにおいて一歩先んじた実験をおこなっていた。特に、楽曲の装飾を取り除きパーカッシヴな部分のみを残すことで生み出される‘ディスコブレイク’はDJのミックスツールとして使われるようになった。
 この2人が生み出したサウンドと技術は、どれも「フロアを盛り上げる」ことを目的としており、それはクラブミュージックが「踊るための音楽」だからであると言える。こうしたクラブサウンドの発展は、クラブミュージックのシーンをさらに拡大させていった。

3. 大衆化とアンダーグラウンド回帰

 YoungとMoultonを中心にクラブサウンドが形成されていくのと同時に、ポピュラーミュージックのサウンドがクラブミュージックにも取り入れられるようになった。
 また、クラブミュージックのシーンは影響力のあるDJやシンガー、プロデューサーを生み出した。クラブミュージックはもともとプロデューサー主導の音楽であったが、そのプロデューサーとはまさにDJであり、クラブの真のスターはDJだった。そしてクラブミュージックはDJを通して大衆に広がっていった。レコード会社がこの動きに気づくと、クラブは遊ぶための場所以上の存在になり、大衆に向けて楽曲の反応をテストする場となった。そして、クラブミュージックは爆発的な人気を博し、1976年までにはアメリカだけでも1万軒以上のクラブが乱立した。
 しかし、クラブミュージックがラジオの電波を独占し、ファンクやロック、ポップがかからなくなると、逆にクラブミュージックに対する反発が起こるようになった。1979年には、シカゴ コシスキー・パークにてクラブミュージックのレコードを燃やすイベントが行われた。ただ、その日燃やされたレコードにはクラブミュージックだけでなく、黒人やゲイアーティストのものも含まれていた。これは、当時氾濫していたエイズの危機によって、ストレート(異性愛者)の白人男性の価値観が浮き彫りになったことの表れと言える。
 こうしたことを背景に、クラブミュージックは再びシカゴでアンダーグラウンドに入り込み、数年後にハウスミュージックとして生まれ変わることになる。

4. サウンドの変遷と細分化

4.1 ハウスとテクノ

 1970年代の終わりに、NYでDJをしていたFrankie Knucklesがシカゴのクラブ「Warehouse」にDJとして招かれた。その時、彼がプレイしていた音楽を、地元のレコード店が「ハウスミュージック」と称して販売したことがハウスの始まりと言われている。
 その後、後任のRon Hardyがドラムマシンを多用したDJプレイをするようになり、シカゴの地元の黒人ミュージシャンたちが安価なRoland TR-909を使用した曲を作り、それらがクラブでプレイされるようになった。こうしたシカゴのシーンはデトロイトで注目されるようになり、似たような音楽がつくられ始める。デトロイトの音楽は、享楽的なシカゴ・ハウスに対してシリアスさを前面に出しており、より実験的な音づくりが特徴であった。このデトロイトの音楽に注目したイギリスのレーベルが編集盤を発売する際に「テクノ」という言葉を用いたことがテクノの始まりと言われている。
 この頃、ヨーロッパではレイヴという野外パーティが流行しており、そこでテクノやハウスが受け入れられるようになった。当時、レイヴではドラッグが流行しており、その影響でアシッドハウスやアシッドテクノなどのジャンルのサウンドが生まれた。アシッドとは、Roland TB-303のツマミをランダムに動かすことで偶然生まれたサウンドがあたかもアシッド(LSD)の幻覚作用を思わせる幻想的なサウンドだったことが由来だと言われている。
 さらに、レイヴシーンではより激しく、多彩な音が求められるようになった。その結果、トランスやハードコアテクノなどのジャンルが生まれた。
 トランスには、インドのゴア地方で生まれたインドの音階やイスラム音階などを用いた民族音楽に近いメロディが特徴のゴアトランス、オランダで大流行したダッチトランス、より高速化したトランスコア、北欧で盛んだったNRGなどの細分化されたジャンルが存在する。
 一方、ハードコアテクノは、Mescalinum Unitedの「We Have Arrived」が最初と言われている。この曲をきっかけに、キックはより重く、他の音もけたたましくなっていった。サブジャンルとしては、イギリスで主要でメロディアスなハッピーハードコア、ハッピーハードコアに反発してオランダで生まれたロッテルダムテクノ、それをより高速化したガバ、逆に低速化したニュースタイルガバ、そしてさらに高速化したスピードコアなどが挙げられる。
 ハードコアテクノ以外のテクノでも同様に、曲の速さやメロディアスさなどによってジャンルの細分化が進んだ。中でも、ハードミニマルやビッグビートなどが挙げられる。
 近年のテクノハウスでは、バンド方面からのクラブミュージック的アプローチであるニューレイヴという言葉も生まれている。

4.2 レゲエ

 レゲエが生まれたのは1970年代のジャマイカでのことである。ジャマイカは1962年に独立して以来、R&Bやジャズを独自に解釈した「スカ」や、テンポを落とした「ロック・ステディ」などのジャンルの音楽が登場し、独自の進化を遂げてきた。その流れを起源としてレゲエは誕生した。
 レゲエはアフリカ回帰主義(ラスタファリズム)の影響を強く受けており、当時の楽曲には政府や西洋社会への抵抗を示す歌詞が多い。また、同時期には、リズムを強調するミキシングをし、エコーやリバーブを過剰に掛けた「ダブ」という手法も生まれた。
 レゲエを代表するシンガーソングライター、Bob Marleyらによって、レゲエは広く認知されるようになる。そして、主にイギリスに移住したジャマイカ系二世を中心に、レゲエにイギリス独自の解釈を加えた「ラヴァーズロック」が誕生した。このラヴァーズロックとレゲエは、その後の欧米のクラブミュージックに従ってデジタル的なサウンドへと変化していった。
 1985年、曲のリディム(リズム)にカシオトーンを用いた「Under Me Sleng Teng」が大ヒットする。これを機に、ジャマイカのレゲエもデジタル的なサウンドへと変化していった。こうしたサウンドの変化を背景にして、ドラムのフレーズをサンプラーに取り入れ分解したり並べ替えたりしたもの(ブレイクビーツ)を高速で再生することにより生まれた音楽「ジャングル」が誕生した。
 ジャングルはジャズ、ソウル、HIPHOPなどのジャンルとクロスオーバーされ、Drum’n’Bassの始祖となった。

4.3 HIPHOP

 HIPHOPの起源は諸説あるが、1970年代初期に3人のDJを中心に生まれたと言われている。1人はブレイクビーツの発明者であるKool Herc、2人目はスクラッチ技術の流布者であるGrandmaster Flash、3人目は最初にHIPHOPという言葉を使用したと言われているAfrika Bambaataaである。BambaataaはDJ、ブレイクダンス、グラフィティ、ラップ文化のすべてを指してHIPHOPと名付けた。
 初期のHIPHOPはオールドスクールと呼ばれ、ブレイクビーツ(ドラムマシーンのループ)に他ジャンルの音楽のサンプリングとラップを加えたもの、もしくはブレイクビーツとラップのみで構成されていた。オールドスクールはクラブミュージックを好むディスコ・ラッパーと、それを嫌うB-BOYで対立していた。
 1986年「Run-D.M.C」というHIPHOPグループがPVでAerosmithと共演したことをきっかけに、HIPHOPは一般層にも広く知られるようになった。その後、HIPHOPはゴールデンエイジと呼ばれる成長期へと移っていく。
 1990年代、HIPHOPは急成長し、さまざまなジャンルに影響を与えた。この頃のHIPHOPは、政治的主張や貧民街の暮らし、アフリカ回帰などの強いメッセージ性を帯びていた。HIPHOPは商業的にも成功を収め、オーバーグラウンドな存在になっていった。また、女性アーティストが台頭してきたのもこの頃である。
 この頃のアメリカのHIPHOPシーンは東西に分かれており、西海岸側(ウェストコースト)ではゆったりとしたテンポとシンプルな音を特徴とするギャングスタ・ラップが勢いを増していた。一方、東海岸側(イーストコースト)のHIPHOPは、シリアスで激しい歌詞やサウンドを特徴としていた。
 その後、ウェストコーストの「デスロウ」とイーストコーストの「バッドボーイズ」にそれぞれ所属していた2PACとノトーリアス・B.I.Gが銃撃されたことなどをきっかけに、2派の対立が激しくなった。デスロウからは多くのアーティストが去り、ウェストコーストはHIPHOPのメインストリームから外れていった。その結果、ギャングスタ・ラップは勢いを落とし、代わりに南部を中心としたライフスタイル思考のHIPHOPが人気を集めるようになっていった。
 それ以来、HIPHOPはさまざまなジャンルとクロスオーバーされるようになり、現在に至る。特にレゲエとは互いに影響を与え合っており、2000年代以降にはレゲエとHIPHOPのアーティストが多く共演している。

【参考文献】

  • uDiscoverMusic「ディスコの歴史:ダンス規制法の中でマイノリティ文化から生まれ全米に浸透したダンス・ミュージックとアーティストたち」https://www.udiscovermusic.jp/stories/its-ok-to-like-disco (2023/06/26)

  • DTM・楽曲制作StudioVinyl 「クラブ・ダンスミュージックの歴史【YouTubeで見る】」 https://studio-vinyl.com/260/ (2023/06/26)

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