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【聞き書き②】馬木村に暮らす山脇さんの昔話(後編)

1.子どもの頃は炭焼きもしていた

 子どものころは炭焼きも手伝いましたよ。山の木で炭焼きしました。たたら用の炭?たたら用のはね、粗末な炭でしたわ。松の木とかぞうき(雑木)とかね。昔は暖房、民間の家庭用の暖房用にする、こたつなんかに入れる炭は、どんぐりの木のね、上等の木の硬い炭を作らんとお金にならんの。随分それをね、皆さんが冬の仕事にはそれがもう本当に欠かせない。それを専門の検査員が。お米の検査が一等~ってつけるように、木炭も炭竃で焼いて作った炭もですね、ちゃんと検査してみて、金づちでこんこんこん、ハンマーでこうやって高い音の、良い音のする炭は上等な炭。例えばいちばん上等な備長炭なんてのは、お茶の席で、釜に使うような。
 一般の備長炭てやつはやっぱりやり方があって、それはあのお茶席の茶釜の下に入れる。私らの作ったのは、ただの暖房のこたつ用。おこたへ入れる用。木炭は誰もがやってましたね、冬はね。

 面白いことを1つ思い出しました。戦争末期から戦後の一時期、集合バスも木炭をたいて走っていましたよ。小馬木鉱山のトラックもね。原理は解らないけど車掌さんが早出して、炭火をおこしてエンジンを温めて、やがて運転手さんが出勤してきてフランクを回して起動していたなあ。
 鉱山のトラックも急な登り坂はスピードダウンするから下校時に、たまたま後のボテに乗ったり車を押したりした事もありましたね。

高度経済成長まで炭焼きの光景は奥出雲のどこでも見られた

 子どもの時から手伝いはしてました。中学校くらいからかな。いちばん最盛期はね、昭和32、33年ぐらいまでかな、木炭はね。木次の駅には、ほとんど鉄道で、貨車でばっかり運んで、木次の駅には飯石郡の方からもいっぱい。木次の駅には木炭専用の倉庫もあって、運んできたのが入ってくる。横田でも八川でも木炭はいっぱい山積みになってます。それで炭を入れる容器はすすきを刈ってきて、それを筵(むしろ)のように編んで作ってね。4貫、15kgかな。それを長さが50cmくらいのものを15kgずつ。ほんで月に1回くらい、専門の島根県の職員、県職員、検査員でした。お米の検査は国家公務員で食糧庁が管理してました。木炭は島根県の県職員、農林事務所の。これは一等だ、二等だ。

 いや、値段は民間の業者がいました。それをまた仲買人が買って都会に運んでというシステムでしたね。米は食糧庁が一括政府管理になってましたね、木炭は民間が事業としてやってました。

 黒文字(クロモジ)という香りの良い木ね。(和菓子食べるときのつまようじのように使われる木ですね。)そうそう。あれの小さいのを折ってね、蓋にしてね。筵を作る、すすきの、長さがねこのくらいにして、炭をそこへ入れて、両側が開きますからね、そこへ黒文字で蓋をして。クロモジの生木。生木を置いて蓋をして、生木をね、切らずにこれは曲げたり。そう曲がります。容易に。で蓋をして、こう、縄で。(荒縄で縛って。)
 なんでか知らんが、クロモジでしたわ。でこれまた蓋をしたところを縄でして。ここをまたこう縄で括って15kgの四角い物にして、それをひとつは下からぼくの木をこう。500円くらいしたことを覚えてる。

(絵でレクチャー)ここがこう、炭が中に入れて。合うときには~四角いときには、折ってここを塞いでね。ここへ炭を入れて。ここの両側を、今の黒文字で蓋をして、ほんで縄でこう縛ってやってね。炭が~ならんようにここ縄で縛ってやって。15㎏にして。4貫。15kg。『かん』っていうのはこの貫ね。15kgか、3.75の。4貫。こんな感じ。革でこう編んで、四隅をこうして蓋をこんな感じでね、黒文字の板をして。この仕組みを4貫。山脇:私は編んだりしとらんですけどね。

2.炭を山からおろす

ーお手伝いはどんな手伝いを?

 山から負うて出ると10銭とか20銭とか(もらってね)

ーこの15キロを炭窯から負って出られるんですか?

 山から何百メートルとか山から持って出てね。これを大人は3つとか重ねてね。急な坂道をね。道路のところまで、誰かが運ばんとね。そこからは車でね。私らが知っているようになってからは、まあダイハチで行ったりとかね。昭和30年代になってからは、いわゆるオート三輪でね。炭を焼くのは子どもの時はしてませんでしたね。

3.焼き窯周りに蕎麦を蒔いて、自分で打って食べたもんですよ

 戦後の貧しい時には、食料ない(食料難の)時には、窯の周りの枝も焼かないけんから、その焼き跡の周りに、蕎麦を蒔いて、出来たものを自分で収穫して自分で蕎麦打って食べたもんですよ。己の口に入れようと思って蒔いたんですよ。炭焼きの窯の回りにずっと灰を蒔(撒)いてね。

 蕎麦はどこでもいい訳ではなくて、あまり勾配の急でないようなところへね。周りに蒔くと土が焼けてね。蒔くと、自然のあれでね蕎麦は肥料はなくてもね。ようできました。米と違ってね、地力がなくても蕎麦は育つからね。

ーその炭窯は移動されたんですか?

 はい。この谷が終わったらこっち。この谷が終わったら今度はあっち。移動してやらにゃいけん。20年、、、いやいやいや、焼くことはほんとは3年から5年かな。するとまた木が大きくなるからね。雑木林だと、早いところで20年で戻ってくる。木は20年から30年で切ってやらんと、大きくなりすぎてしますからね。針葉樹は切ったらもう芽が出ない。でも広葉樹は生えてきますからね。

4.今は木がお金にならなくてね

 炭を焚くための木を。生活するためには米を作って。棚田で米作るには山で木を切ってきて。たたらをするために木を焚いていただろう。それでまた必要な木を植林したりしていましたけども、今は植林しても木がお金にならない時代。それはちょっと惜しいですね。

広葉樹は伐採後の切り株から芽が出て再生する(萌芽更新)
萌芽更新で再生した山

 まあそうして暮らしていましたね。昭和30年くらいまではね。春から夏まではお米を作って、秋の終わりから雪が消える冬が終わるまでは炭を焼いて。また、家の近くの方の山ではしいたけをつくったり。しいたけもどんな木でも木でさえあればいいかというとそうもいけんで、あの、どんぐりの木のいい木でないとね。ナラの木ね。木を伐る時期も大切でね。秋から春の2月くらいまでに切った木を持ってかえって、菌を植えてやって。

5.冬のたんぱく源はうさぎ

 冬はうさぎ追いをする。たんぱく源がないから、うさぎやなんかを追ってね。私が子どもの時に、年寄りに習ってね。うさぎはよーく捕れましたわぁ。はりがねをね、えんぴつの芯くらいのはりがねのね、こう輪っかをつくってね。両側へちょっと木の枝を挿してわびしておくと、やってきて頭が向こうへ出るときに頭が入ると締まってね、抜けなくなってね。やるのが楽しくてね。鳥はやったことないですけどね。

 うさぎはどう食べるか?自分とこに持って帰って、皮をはいで。あれすることは簡単ですよ。あの、はしごをね、脚立みたいなね、そこに吊るしておいてね。下にこうして剥ぐんでなしに、吊るしたまま剥ぐんですわ。かわいそうだけど、楽しかったですよ。

 身だけじゃなしにね。昔はたんぱく源だから、骨まで全部食べましたわ。ミンチみたいにしてね。どっこも庭に石があってね、ワラで縄をなうための、それを叩くための石があって、その石でウサギや鳥の肉を叩くと、骨も一緒にミンチにして、それで団子にして、煮たり焼いたりして食べましたわ。ほかにも小動物がいましてね。皮も貴重だからえりまきにしてね。当時はそういうエリマキをしたのが何人もいましたよ。防寒着。テンみたいなイタチも

 テンは皮だけ。アナグマはマミ(猯)って言ってね。まああれ(マミのこと)は美味しかった。タヌキは臭くて食べれん。まあ2月からは臭くてね。冬は大丈夫だけどね。あれ、なんでだかわからんけどね。

 イノシシは40年、1960年くらいまではイノシシなんて見たことなかった。50歳くらいまで全然いなかった。あれは最近ですよ。ウサギやタヌキやキジ、山鳥やキジなんかが主流でね。(昔からいたことはいたけど、もっと山の奥にいたんですよねきっと。)熊なんてごくごく最近。鹿も最近。たまーにおるくらい。ここ4・5年くらい。ここらは雪深いところですからね。雪が降ると動物の足跡が残って、年寄りが、これはなんだいって言って。歩き方を見てね、全部わかって。

 狐はね。狐に化かされた人なんてね結構おられましたよ。子どものころはこわかった。落ち葉が落ちてたら道を歩くとカサカサ音がする。うちは小学校から5㎞以上ある。日が暮れるようになってから学校を出発しても、子どもの足で1時間以上かかるでしょ。もう家の近くの方まで帰る頃には暮れてますからね、ススキがこう鳴るとねぇカサカサ音がする。こわかった。だから今はもう全部ね小学校の子供みんな自家用車で送迎ですよ、それか今ではスクールバスでね。

6.夏は川遊び。鮎はきゅうりの匂い

 子どもも今は休みが春休み、冬休み、夏休みですが、昔はね、農繁期休業と言ってね、間にお休みがありましたよ。3日か4日くらいかな。休んで手伝いをする。子守をする。秋もあった気がする。春は田植えでね。田植えも全部手で植えないといけないからね。
 夏休み?夏休みはありましたよ。短いかな。夏休みはもっぱら川遊び。プールなんてなかったからね。川へ降りて、魚をとる。昔は川にたくさん魚がいましたからねえ。鮎なんかを手づかみできたこともありますねえ。鮎を手でつかむとねえ、きゅうりくさい匂いがしますからねえ(別名きゅうり魚)。

一同:へえーー!

 昭和9年に大水害があって。大馬木の小学校のその災害復旧に川幅を拡げて、ところどころ堰堤があって、上流のところに。そこで遊びました。

7.牛とひとつ屋根の下は当たり前

 牛もこないだまで飼ってましたね。3頭のときや4頭のときがあります。牛は大事な家畜ですからね。一軒の家にね、玄関はいってこっち側牛小屋、こっちが居間で牛と同居してました。ひとつ屋根の下で。なんかちょっとおかしいぞってなったらいってみないけんね。戸ひとつあけるともう牛小屋ですけんね、母屋のなかに右側が人間の住まいでこっちはあのー二間だけは牛小屋にしてね、やってました。

 ええ、仔牛も一緒にねえ、そこで子どもを産ませてましたよ。だいたい二頭はほとんどの家でね、ひとつ母屋をつくると、子どもまでは、玄関んに戸口があって、土間があって、二間あって、ここへ田の字型のね、わたしらのは田の字型の典型的な建築ですから、四方が開くと、夏でも涼しいです。風が吹いておりますけんね。クーラーなんかなくても、開け放ってやれば、こっちもこっちも風通しがいいですけん。田の字型ですけどねえ。ここと同じ縁側があって。

 客間のこと“表”ですが?ここから..玄関(ゲンカ)、玄関(ゲンカ)かなあ..大黒柱はね、とんどさんのものだからつけるっさ。飾りをね、ここにつける。ここのところが牛小屋。あがりぶちょう、はまゆか、はまゆか。方言で、はまゆかですかねえ

 裏のが納戸。押入れがある、納戸。寝室はねえ、これはまあだいたい、おじいさんおばあさんはだいたい、このへんで休みましょったわ。(部屋の見取り図を指しながら)ほかに二階があったりね、こっちが若い者が二階におったりする。こっちが北で、こっちが南側になります。

 だいたいこんな感じが標準的なもん。多少あるけど。こんな感じで、もう牛と同居。そうです。かやぶきでしたねえ。蚕さんはねえ、飼う家庭がありましたけどねえ、私のところは蚕飼わんかった。蚕は結構また忙しかった。蚕を飼う部屋は時期になるとねえ、棚をつくるんですよ。部屋をひとつ、ひと部屋つかって。棚をずーっとこうつくらんと、蚕があがるときこうあげないけんからねえ。繭をつくるから。棚あげてかいけないから。一部屋いります。

 同級生なんかのとこ行くとね、蚕部屋があってね、終わるとまた片づけるんだけど、一部屋つかって、蚕飼ってた

8.正月行事

今も正月飾りを大黒柱に

-大黒柱に今でもそうやって飾っとられるんですから、すごいです

 もうせんようになりますよ、歳とって。大儀になって。
 外すのは1月の11日の朝にね、男性が起きて、昔から伝統的に男がやる、料理をね。男が起きてお供え、あの神棚の前に供えていた、あのー鏡餅なんか全部男性が下げて、それを切って、その時はあずきの雑煮だなあ。あずきの雑煮を作って、いただくという習慣になってます、風習にね。1月11日の朝。男性だけが早く起きて、全部、あれする。
 飾るのは12月の28日に飾るということになってます。それまでに山から材料持って、採って帰って、おいて。まあ、幸いなことに自分とこの山に、あの、ありますからね。実のなる、こういっぱい赤い実がなる〜。ウラジロとかね。そういうのを採ってきて材料揃えといてやらんと大雪でも来たら、できんことなりますけん...

9.結婚式の話~友人たちが地蔵を縁側に持ってくる話~

 昔はね、昔はってゆうか、私らが境目くらいで、もう私が結婚する時も公民館でやったらっていうような。あの、ちょうどその頃から新生活運動ていうのがあって。公民館結婚がぼつぼつ始まろうとしてましたね。たまたま私は家でしました。家でして、一週間くらい毎晩、嫁さんもらったろ〜。嫁さん見にくる〜(見に来たぞ)て。(祝いをいう人が来てくれました)隣の近所の皆さんから、友人とかね、いろんな人が来てね。

 昭和40年くらいからはもう公民館結婚が主流になりました。それ終わって今度は、結婚式場というのがだんだん...だと思いますけどね。
私は(結婚は)昭和35年ですけん。 村に地蔵さんがありますが?それを若い人たちが、友達が結婚したところ、お家へ夜中に持っていって置くんですよ。据わりがいいようにね。縁側に置く。どこのでもいいんですよ。石の地蔵さんがあちこちにありましたからね。友人たちが持ってくると、また、もてなしてあげて、なにでもてなすか?そりゃあ、まあ、お酒です(笑)
地蔵さんを返すことはこっちがやりますわ。その元にあったところに自分で持ってって返さないけん。そういう風習がありました。どこのお地蔵さんかわかるか? まあ大体わかります。道端にある。持ってきた人に分からんやつは聞けばいい。

10.蕎麦の話

 蕎麦?ああ、いまも蕎麦作ってますよ。蕎麦はね、小さい田んぼで稲作るのに水の便利が悪い、そんなとこでは、私らの集落でも蕎麦を作ってますね。草刈りをしてやって、ちゃんと毎年蕎麦は期間が短いですけんね、7月の月末か8月の初めに蒔いたら、10月にはもう収穫です。
 いまはちょうど植えたときですね。蕎麦の種をまいて。それは後の草刈りをしてやるのがねなかなかね。草をちゃんと刈って。
 どれくらい採れるか?あのね、怠けてると年によって採れない。水が、蒔いてからね、最初に雨が続いたりすると採れない。水捌けのいいところでね、乾燥したところでやらんといけんです。私のところは今は集落で法人化してまして農作業をね。法人で共同でやってますけん。隅の方の大型機械の入らんようなところをこっちの山際で10a、あっちの山際で10aとか、やらしてますからね。んで、みんなで草刈りをして、大体10aを何キロかいな…30キロ以上採れんといけんですわ。そうするとなんか〜のなんかがあると思いますけどね。直接私やってないけんね。
 ああ、売ってもいますよ、JA。JAに売ってます
お店には、松江にあのー、馬木から、出てやってる蕎麦屋ふなつ。
 あのおばあちゃんはここから出た人で。まだ衛生管理者はおばあさんの名前が書いてある。もうとうに亡くなったふなつのおばあさんの名前が衛生管理者に貼ってあってね。なつかしいよ。
そこのね、委託を受けて蕎麦作ってあげたり、できた蕎麦の実はあげて。食べてやってください。そいがうちで作った蕎麦かもしんない。自分たちでね、農地を、今の国営開発の農地をそのふなつさんが買って、作業だけは私らが。元々がこの奥の金言寺の近くから出たおばあさんです。

11.蕎麦オーナー制度をやっていた

 私の法人では作ってるのはお米と蕎麦だけですけどね。前はイベントしてましてね。イベントいろんな、蕎麦オーナーのチームがやって、大体20人くらいオーナーを募集してね。年会費1万円もらって、2万円かな、わからん。募集をしますと、出雲だ、松江だ、多くはあっちの方からもね来られて、今の蕎麦の種まきに来て貰えば、一緒にそばの種を蒔いてもらいて、今度花が咲けば、蕎麦の花見をしましょう言って、蕎麦畑きれいに花が咲いたら見てもらってね、そんで来られた都度、猪の肉とか生ビールで焼肉パーティー。で今度、実がなった時には、収穫祭。収穫祭をやって、これまたビールとあれでもてなしをして、お椀もいっぱい持って出ておもてなしをして。それが20年まで続かん、コロナになってね、辞めました。
 それともう一つは、その2万もらったうちで、蕎麦粉何キロと、お米を5キロとかね、お土産に持って帰ってもらってね。家族で、家族何人来られてもいいですけどね、来られた人の人数、1人1000円とか会費いただいて、〜。それともう一つイベントやってたのが、これも10年やりましたけどね、広島の中区のど真ん中に横田から出られた人がね、司法書士さんの弟さんの。あれが世話焼きして、中区のあそこからバスで1台、1番多い時はバスが20台ぐらいやって来てね、都市と農村の交流事業やりました。春の田植えと秋の稲刈り。バス2台くると、子供よりもおばあさんたちが喜んでついてきてね、食べたり、それもらって帰るのが楽しみでね、いっぱい来てる。それを10年続けましたね。子供はまあバスに大型バスに1台来ても50人が限度。いっぱい乗ってきてね、田んぼでどろんこになって田植えしたり、10年続きましたけどね、世話焼きしていた白根さんという方がもう高齢になったけんよう世話焼きせんギブアップされて、終わりました。元々は、出身が横田だったから横田の角で10年やってて、で横田の角がもううちはくたびれたて言って、じゃあこっちでやりましょう言って、木屋谷(こやんたに)で10年やりましたね。だけん、世話焼いた者が私たちも含めてもう80代とかみんなが70代なったら、女性の方もね、そんなにようどんどん天ぷらを作ったり、何することはできん。次の世代の団塊世代からはね、今70歳までぐらいのところの人はまだ働いてる人が多くてね、そんなイベントがなかなかできなくなりました。

12.馬木でコーヒー喫茶を始めた話

 これからは、その人たちが過疎地域を過疎じゃなくなんとかうまく、そういうイベントをやって、地域を盛り上げていくかということを少し考えていただかないといけんだろうなと思うてますね。私なんかも、こんなことを言っては、多少種蒔いたりしますけどね。まあ1つは、そこのカフェで年寄りの皆さんが寄ってコーヒーでも飲めばいいがな言って、旧JAの空き店舗があって、空になってましたんで、そこでコーヒー喫茶をね、始めました。
 馬木のJAの跡地のところで。水曜日と土曜日ですね。もう一つ向こうの大馬木では火曜日と金曜日にね、そこもやってます。
 コーヒー喫茶なぜやったかというと、私がこれはいいことだなと思ったのは、頓原にね、飯南町の頓原に、えー、おばあさんが縁側喫茶というのを始めた、おばあさんは20年以上になると思いますね。よく福祉の関係でJAを辞めてから各地方の民生委員さんのとこをずっと回ったことがある。その時、頓原に行ったら縁側喫茶がやってましてね。確か加瀬部さんとかいうおばあちゃんが、今は国道が頓原の古い町は通ってないけどね、昔の古い町の中で、おばあさんが自分とこの縁側を開放して、近くのおばあさんたち寄ってお茶のみをしてたのを見まして、こりゃいい考えだなー。それをずっと思ってたらたまたま、こっちが過疎になって空き家になってしまってたんでそれなんかやろうじゃないかって言ったら。私は言っただけでようお手伝いせんけどね。それが案外ね、皆さんがやってくれて、いい感じになってますけども。これから次の世代の皆さんが新しいなにか、過疎だ過疎だ言ってこうならんように。
 昔は神楽もあったんですわ。石見神楽のようなね上等な神楽じゃなかったけど、小森神楽言って、わたしゃ子供の時に、夜から夜が明けるまで神楽を「神楽て面白いもんだー」と思ってね、夜が明けてから、帰って鞄持って学校行ったの記憶ありますほんとに。それだけ小森神楽っちゅうのは魅力がありましたけんね。なんか〜があって廃止になってしまいましたけどね。またそういうことで何かやったら良さそうだけども、なんか過疎だ過疎だ言ってこうなってしまって。
 元気出してほしいなーと思ってますけどね。

馬木地区木屋谷の風景

~聞き書きを終えて~

「子ども時代から、高校生、卒業から就職まで、人生歴をたどるような語りで(当時の様子など)想像を膨らませながら楽しく聴くことができました。
 特に昔は貴重なたんぱく源として“うさぎ”を食べていたという話は驚きました(中国でうさぎを食べる風習があるのは聞いていたけど、日本にもあるとは..)。うさぎの捕らえ方にも昔の人々の知恵が詰まっていて、他にはどんな知恵がでてくるのだろうとわくわくしました。」((島根大学3年生:綾部珠咲さん)

「聞き書きに行った時は、予定していた時間より長くお話を聞かせていただいたのですが、それでももっと聞きたいと思うくらい面白いお話が盛りだくさんで楽しかったです。私が知っている現代の風習や暮らしとの違いに驚くことも多く、その違いが新鮮で、奥出雲での暮らしや風習にもっと興味が湧きました。また、地域を盛り上げるために様々なことをされていて、生まれ育った地域を大切に思われていることがとても素敵だと感じました。」(島根大学3年生:平良かこさん)

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