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奥出雲町ってこんなまち!

こんにちは!今回は奥出雲町の地理や歴史についてご紹介したいと思います!

奥出雲町ってどこにあるの?

奥出雲位置

 奥出雲町は、島根県出雲地方の東南に位置し、広島県と鳥取県に接している山間の町です。
 人口は約1万2千人、面積は368k㎡です。島根県内では中くらいの面積ですが、東京23区と比較すると6割くらいの面積があり、全体の83%は森林です。また、島根県の県庁所在地である松江市から車で約1時間、空の玄関である出雲空港から車で約45分、中国地方の中心都市である広島市から車で約2時間です。
 町の標高は、最低が166m、最高が1,267mで、町の南側には中国地方の脊梁を形成する1,000mを越える山々が連なるなど起伏に富んだ地形です。中心となる集落は、標高約200mから400mの間に点在する盆地に立地しています。盆地的地形を反映して昼夜の気温差が大きく、おいしいお米や野菜が育つ要因の一つとなっています。

奥出雲町の神話とたたら製鉄

 奥出雲町は、悠久の歴史を持つ町で、日本最古級の歴史書である日本書紀や古事記に記されるヤマタノオロチ神話の舞台として知られています。この神話は、例えば古事記では「降出雲國之肥上河上名鳥髪」と記載されるなど、スサノオノミコトが出雲国の斐伊川の上流にある鳥髪(現在の奥出雲町鳥上地区にある船通山)の地に降り立つところから始まります。

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スサノオノミコトが降り立ったとされる船通山

 また、古くから製鉄で栄えてきました。天平5年(733)に成立した出雲国風土記の仁多郡(現在の奥出雲町)の条には「以上の諸郷より所出る鉄、堅くして、もっとも雑の具を造るに堪ふ(仁多郡の各郷で生産される鉄は、堅くて、さまざまな道具を造るのに最適だ)」と記されています。同風土記において鉄が生産されていることを具体的に記している箇所はここだけで、仁多郡では既に鉄づくりが盛んに行われていたことがわかります。
 さらに、同風土記において「仁多にた」という地名の由来は、大国主命(大穴持命)が「此の国は、大きくも非ず、小さくも非ず。川上は木の穂刺しかふ。川下は阿志婆布這ひ渡れり。是はにたしき小国なり(この国は適度な大きさで、川上は木の枝が梢を差し交わし、川下は葦の根が這いわたっている。ここは湿潤で(水田に適した)、こぢんまりとした国である)」とおっしゃったためと記されています。つまり「にた」とは水田に適した湿潤な場所ということを意味します。
 古代の人々にとって、日当たりが良く、水が確保できて、災害にあいにくいことは、日々の暮らしのうえでとても重要でした。適度な空間的広がりを表現した大国主命のこの言葉は、土地に対する最高の誉め言葉と言うことができます。また、大国主命(大穴持命)が「此地田好(この地の田は良い)」とおっしゃったという記述もあり、肥沃な土地で稲作が盛んに行われていたようです。

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奥出雲は古代から稲作に適した地だった

 中世になると、奥出雲を拠点とする三沢氏や馬来氏といった武士が活躍します。特に三沢氏は、最盛期には備後国三上郡信敷荘(現広島県庄原市)や隠岐国美多荘(現隠岐郡西ノ島町)にも所領を有するなど、出雲国最大の国人領主として繁栄しました。三沢氏の成長を支えた経済的基盤には製鉄があったと言われ、三沢氏が本拠を置いた三沢城は中世山陰屈指の山城として知られています。
 そして、三沢氏は、製鉄による繁栄を背景として茶の湯に傾倒し、中央(京都)の文化を直接吸収していました。千宗易(千利休)の一番弟子の山上宗二が、奥出雲の岩屋寺を介して三沢氏に送った茶の湯の秘伝書「山上宗二記」には、三沢氏が数寄の道にご執心であるため、三沢氏と岩屋寺以外の誰にも見せないという条件で、この秘伝書を渡すと、秘伝書が贈られた経緯が書かれています。このように、たたら製鉄はその繁栄を通じて地域文化の発展を促しました。

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三沢城は中世山陰屈指の山城として知られる(島根県指定史跡)

 江戸時代になると、奥出雲の製鉄はますます盛んになり、多くの人が製鉄に関わることで暮らしを立てていました。大量に生産された鉄は港まで運ばれて北前船により日本各地へと出荷され、日本の鉄需要を支えました。奥出雲の鉄の最大の出荷先は大坂で、次が新潟や三国といった北陸地方だったようです。そして、新潟や三国から、三条や武生といった刃物産地や、阿賀野川上流の会津など、内陸の需要地に運ばれていきました。
 江戸時代において製鉄を担ったのは鉄師と呼ばれる経営者で、奥出雲の鉄師のうち特に大きかったのが、櫻井家、絲原家、卜蔵家の3家です。たたら製鉄の経営者宅には、奥出雲を統治した松江藩主や、文人墨客など、多くの客人も訪れました。櫻井家住宅の上の間や庭園は、大名茶人で知られる松江藩主の松平不昧公が来駕された際に設えられたとされています。また、絲原家には日本を代表する歌人のひとりとして知られる与謝野晶子が訪れています。地域文化を育てた3家の繁栄を伝える建造物や庭園、史跡などの文化財は今日に伝えられ、たたら製鉄で栄えた奥出雲の歴史を伝えています。

【櫻井家】櫻井家住宅②(国指定重要文化財・重要文化的景観)
たたら製鉄の旧経営者櫻井家の住宅(国指定重要文化財)
【櫻井家】櫻井氏庭園②(国指定名勝・重要文化的景観)
松平不昧公も愛でたとされる櫻井家の庭園(国指定名勝)
【絲原家】絲原家住宅①(国登録有形文化財・重要文化的景観)
たたら製鉄の旧経営者絲原家の住宅(国登録有形文化財)
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数々の文人墨客が訪れた絲原家の庭園(国登録記念物)
【卜蔵家】原たたら跡⑭(奥出雲町指定史跡・重要文化的景観)
たたら製鉄の旧経営者卜蔵家が操業した製鉄所の遺跡(奥出雲町指定史跡)
【卜蔵家】旧卜蔵氏庭園①(奥出雲町指定名勝・重要文化的景観)
たたら製鉄の旧経営者である卜蔵家の庭園(奥出雲町指定名勝)

 そして奥出雲では、現在でも世界で唯一、伝統的な技術や材料を受け継ぐたたら製鉄が操業されています。操業の主目的は日本刀の作刀技術の保存のためですが、それだけではありません。たたら製鉄で生産された鉄は、東大寺南大門に安置される金剛力士像(国宝)の「平成の大修理」の際に使用された和釘や鎹の原料などにも使われています。また、たたら製鉄であわせて産み出される銑は茶釜の原料になるなど、伝統文化の保存に幅広く使用されています。
 奥出雲の歴史と文化にとって、神話とたたら製鉄は欠かすことができません。そして、たたら製鉄は奥出雲の農業の発展にも影響を与えました。たたら製鉄が農業に与えた影響については、今後のnoteの記事でご紹介していきたいと思います。

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現在もたたら製鉄の技術を継承する日刀保たたら
【選定保存技術】玉鋼①
現代のたたら製鉄によって生産された製品「玉鋼たまはがね


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