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格闘家・武尊という男がもつ引力

2022年6月19日、この日曜は格闘技ファンにとって忘れられない日になった。
いつもは決して交わることのないK-1・RISEという二つの格闘技団体が、その垣根をこえて夢のような大会「THE MATCH」を開催したからである。
それもたった二人の選手のために。

その選手の一人が武尊(たける)だ。

武尊選手はK-1を牽引する圧倒的なスターである。
目の前の相手が強ければ強いほど、殴り合うのが楽しくなってくる。試合中に彼が笑顔を見せると客席は熱気を増し、怒号に近いような歓声が湧く。私もその一人だ。武尊が笑ったら最後、相手はあっという間に殴り倒されてリングに沈む。
その光景は何度見ても圧巻で、毎回「やっぱ強いなぁ」とお決まりの言葉しか出てこなくなる。

その武尊が、負けた。
那須川天心という稀代のスーパースターとの試合で、ダウンまでとられて。

生中継で観戦していたのだが、この瞬間は驚きすぎて声も出なかった。
ただ短く「ヒッ」と息をのんだ音が喉からしただけだ。

ふだんから格闘技はよく見ているのでダウン自体は珍しいことでもないのだが、私はこれまで武尊がリングに転がっているのを見たことがなかった(戦績的にはたった一つだけ黒星があるが)。
初めてみる光景に、瞬きもできない。
1Rが終わった時、私の掌は氷でも持っていたかのようにビシャビシャだった。

そして迎えた結果発表、レフェリーの腕は武尊の腕を掴んだまま上がらなかった。

勝者がリングでスポットを浴び、銀テープの光と歓声に包まれる中、涙の止まらない彼は来た道を戻ってゆく。リングへむかう行きの花道とは違う、敗者の道だ。
しかし武尊はこの敗者の道で10年ぶりに人間に戻った。

負けて初めて知る自分の真価


正直にいうと、私はTHE MATCHの夜、彼が自分の命を絶ってしまうのではないかと不安でたまらなかった。
ゆっくり休んでほしい気持ちよりも、誰か彼のそばにいてずっと見張っていてほしいとすら思っていたのだ。

vs那須川天心というファンが熱望したビッグマッチだが、実現するのにかかった時間はなんと約7年。数年前にはこの試合をどうかやらせてほしいと武尊がリングで泣いて懇願していたこともある。それほど彼はこの試合を望んでいたし、この試合に懸けていた。

その熱い気持ちを知っているからこそ、不安だったのだ。
よもや燃え尽きてしまったか。ケジメをつけようとしているのではないか。
そんなことを考えながら毎日彼のSNSが更新されるのを待った。

試合から1週間ほどして、武尊は記者会見を開いた。
そこでふっと重圧から解放された私の胸は、またはち切れそうなほどいっぱいになってしまうのだ。

「自分はこの10年、勝ち続けてきた。応援してくれるファンのためにも勝ち続けることが何より重要で、勝っているからこそ自分は応援してもらえるのだと思っていた。だから負けてしまった自分には、その価値はないと思った。」

ああそういうことかと思った。
彼はファンや周りの人間に対し、負けたことを過剰に謝る。
もちろん格闘家の一番の仕事は、試合に勝つこと。格闘家として、K-1の看板選手として真摯にキックボクシングに向き合ってきたからこそ出た本音だったと思う。責任感の強い彼らしい言葉だと感じたが、次に出た言葉は予想外だった。

「申し訳ないと思いながら戻る花道で聞こえてきたのは、ファンのみんなからの「ありがとう」という声だった。そこで初めて、勝つから応援されるのではなく、武尊というひとりのファイターとして応援してもらえてたのだと知った。それは僕の一生の宝。」

これまでずっと勝つことでファンに価値を提供してきた男は、負けて初めて己の真価をファンから教えられたのだ。

10年もの間、ひたすら勝利へ向かって鍛錬し続けた男が戻るその道は、素人の私の目から見ても敗者の道などでは決してなく、激闘を終えたひとりの男を出迎え感謝を伝えたいファンたちが作った、ただただ優しい帰り道だった。

強いファイターは大好きだ。
どんな相手も打ち砕き、勝利する姿には憧れさえ抱く。
だけど、勝つ選手が好きなんじゃない。
武尊選手、私たちは”あなたのこと”を愛してやまないんです。

こんな当たり前のことを負けるまで知らなかったなんて、バカだなあ。
そんな気持ちがまた涙と一緒にこみ上げてきてしまった。

人の心を掴んで離さない武尊の魅力


記者会見の日、彼は自らが患っているパニック障害とうつ病を公表した。

実はK-1ファンの間ではなんとなくそうだろうと思われていたのだが、公の場でこれだけ大きく取り上げられたのは初めてだったように思う。
というのも、武尊選手にはファンもたくさんいるがアンチも多く、誹謗中傷なぞいつものこと。一人の人間としてなら言い返すこともできようが、K-1の看板を引っ提げてそんなことできるはずもない。

特に今回の那須川天心戦は、両者がずっと熱望していたにも関わらず長らく実現しなかった。そのため「武尊は天心から逃げている」などと言われることもあった。少し考えれば団体に所属する選手である以上、契約の問題など諸々障壁もあるだろうと思い至るものだろうが、そんなことはお構いなしだ。
悲しいが、世の中には何としても相手を傷つけたい欲望のある人間がいるのである。
ただじっと身じろぎもせず、一方的に言葉で殴り続けられたストレスは想像を絶するものだろう。

身体の怪我にも悩まされ、心はズタボロ。それでもリングに上がり続けた武尊選手だが、無期限の休養も発表した。あまり人と関わらないようにして、心身の治療に専念するのだという。
どうか本当にじっくりゆっくり、自分のためだけに時間を使ってほしい。
SNSの更新も本当に気が向いた時だけしてくれればいい。生きていると分かれば私たちファンはそれだけで十分なのだ。

記者会見の中で、ある記者からこんな質問があった。
「機会があれば、那須川選手と二人で話したい気持ちなんかはあるか」

これはきっとあの試合を見ていたファンの多くが見たいと感じた姿なのではないだろうか。世紀の一戦を終えた二人が、お互いに認め合い、親友になる。
漫画の中では定番のアツい展開だ。しかしこの質問に対し、武尊選手はハッキリこう答えた。

「まだない。お互いが格闘技界にいる間は仲良くはできないかなと思う。」

最高。この言葉に格闘家としての彼の魅力が凝縮されていると言ってもいい。
この男は今も燃えている。もっと強くなる気なのだ。

驚くことにあんなに涙を流したあの夜、彼は家に帰ってさっきの試合を流しながら反省点を探したという。どこが悪かったのか、なぜ勝てなかったのか、どんな対策を練れば良いのか。それを朝まで考えていたなんて、思いもしなかった。

武尊選手の最大の魅力は、この純な向上心にあるのかもしれない。

私はこれまで、戦績とは裏腹な繊細さ、その危うさに惹きつけられているのだと思っていたが、これは間違っていたみたいだ。

10年勝ち続けた男は、負けを知ったことで数段魅力を増した。

42戦40勝(24KO)2敗。
戦績に追加されたこの1敗がものすごく誇らしく、そして輝いて見えるのは私だけだろうか。

これからの格闘技界は、より一層素晴らしいものになるだろう。
武尊選手、本当に本当にどうもありがとう。
またあなたの試合を応援できる日が来ることを楽しみにしています。

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