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The taste of tea 1 序話 (整え版)

これは大正9年に書かれた本を現代語にしたものです。
作家の紹介などが、次ページになってしまっています。
よろしければ、序話の序話お目通しください。

序話

私が、中村春二先生※に茶室「不言庵」を建てて頂いてから、もう三年になった。
「日増しに青い苔が茂り、一点の塵もない」という、昔の優れた句に思いをよせながら、露地の苔は日に厚く、雨の朝、月の夕方に、とりどりの趣きをあらわす様になった。

 ※中村春二 大正自由教育の先駆け 成蹊学園創立者
 ※青苔日厚自無塵  唐 王維の詩

「不言庵」というからには、黙って、気持ちを沈め、その道を楽しめとの、貴重な教えだと心がけて、小さな家から、声のもれない限りにおいて、教え子たちを相手に茶道を教えて、二度、春と秋が過ぎ、この道の楽しみがわかってきた。

それなのに、最近になって中村先生から、その話を書いては、どうだろうか?とのお言葉があった。

作家ではないこの私に、茶の湯の生活から感じることができる、味わい深い面白みを書きこなすことは、とても難しいので、ひとまずご辞退申し上げた。

しかし、「茶味」というタイトルまでつけていただいたので、そのお言葉にそむくのも失礼かと、思い直して、筆をとった。


まずここに一つの興味深い話を、お話ししてみたい。

紀伊大納言頼宣(※徳川家康の第十子 紀伊家の初代)は、
若い頃から茶道を通じて、立花宗茂(※筑後柳川城主)細川忠興(夫人は明智光秀の娘ガラシャ)伊達政宗(戦国大名・伊達家17代)と交友が深かった。

ある年、細川忠興が、国に帰る折に、紀伊頼宣の家臣、渡辺一学直綱
(※江戸時代前期 紀州藩士)に、
「私ももう高齢に近づいている。今回帰国したらまた江戸へ来ることができるかどうかわからないと思う。なので、最後の思い出に、紀伊家秘蔵の虚堂の墨跡(※)を見せていただきたいものである」

※墨跡 (筆で書かれた書跡一般を指すが、狭義には宋元時代の禅宗僧侶の書跡と鎌倉時代から江戸時代 にかけての禅宗僧侶の書跡を指す)

という考えを話したので、家臣渡辺直綱は、その旨を主人である紀伊頼宣に伝えた。

頼宣はこれを聞いて、

「それは簡単なことである。それではお招きしましょう。」と言い、日を定めて、紀伊家で茶会が催された。

茶会の当日になり、細川忠興は紀伊家にいそいそと訪問して、さあ席に入ってみると、

床にかけてあるのは、心待ちにしていた
『虚堂の墨跡(※紀伊家秘蔵・大徳寺の系譜からとても貴重なものとされている)』とは異なり、清拙和尚( 清拙正澄 せいせつしょうちょう 臨済宗の僧※)の墨跡で、なぜかお祝いの掛軸がかけてある。

忠興は、「予想とは違うが、仕方がない」と思った。

茶会は滞りなく進み、書院造りの座敷でゆるゆると語り合い、その後、退出した。

忠興は「納得ができない今日のもてなしぶりだなあ」と思いながら、表書院へ出る間の廊下へ差しかかると、

杉戸の陰に差し控えていた家臣直綱が前に置いた箱から、一つの軸を取り出して、
「殿からのご伝言でございます」
と声をかけた。

それを聞いて、忠興は静かに座って膝に手をおいた。
家臣直綱は言葉を改めて、
「主人の頼宣が申すには、これからは、幕府のある江戸に出向くことも難しくなりそうなので、最後の思い出に『虚堂の墨跡』を見たいと思っているとの忠興公のお言葉ではございますが、このようなことは誠に心寂しく思っております。

これからも何度も、江戸へお越しいただけるようそのお祝いのため、今日はわざ『虚堂の墨跡』をさし控えて、これからも平穏無事でお過ごしいただき、また江戸にきた折に、ゆるゆるとご覧いただきたいとのことでございます。それでも、是非にと望んでいらっしゃるならば、お約束もいたしましたことですし、書院にかけてご覧になってください、とのことで、ただいまここまでお持ちしています」

と、軸を箱にのせたまま、忠興へとすすめた。

「そういう計らいとは全然知らず、見たい墨跡を見せてもらえないことを残念に思っていた。ご配慮はとてもありがたく、お礼をなんとも言葉にはし難いことでございます。これからはそのご配慮に甘えて、何度も、江戸に出向き、何度でも拝見させていただきたいと思います」

と言って、墨跡を見ずにそのままにして帰って行ったという。

『賓主応接の礼』(客と主人の応接する礼)
『彼此談論の和』(いろいろ話し合う時の溶け合う部分)は、
このようにありたい。そうして、このような気持ちは茶の湯からでなければ、出て来ないように思う。



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