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小沢健二とあふれる愛。


余計なことを考えすぎたのかもしれない。
だから、まあ、余計なことを考えるのを止めてみようと思う。
それでいい。

今回、小沢健二が復活したのは、岡崎京子との友情のためと思っていた。
人気絶頂の最中、突如姿を消した小沢健二。

ニューヨークで暮らしていた小沢健二のもとに、「リバーズ・エッジ」を映画化したいと、二階堂ふみが訪ね、また物語が動き出す。

小沢健二と岡崎京子。
二人がピカピカと輝いていた時代に、嘘や偽りに、戦ってなんかいないさと、それぞれのやり方で挑んでいた、あの時代。

岡崎京子は事故に遭い、漫画家としての活動を停止する。
90年代の憂鬱さが、暴力的に襲い掛かり、小沢健二は何も言わず、姿を消す。

長い沈黙。
インタビューも拒否、不可思議な目撃情報はあれど、実際、混乱から立ち直るためには、「確かめる時間」が必要だった。

そして、小沢健二は、結婚して、子供が産まれ、「生活」を重ねる。不在の間に、小沢健二の曲は別のミュージシャンにより歌い継がれていく。

19年ぶりに、おじさんとなって現れた小沢健二は、今までの沈黙はここまでに必要な時間であったことを新曲とともに奏でていく。

かつてのポジティブで鋭い、怯えたようで攻撃的な、甘く見て軽んじると、ギタギタに八つ裂きにされそうだった、あの、恐ろしい小沢健二は、物腰が柔らかく、そして、投げ捨てない口調で、感謝を交え、今まさに体験している、奇跡について話す。

その復活は、どこかしら恥ずかしそうでもあった。
けれど、それをしないわけにはいかない理由があった気がした。

「リバーズ・エッジ」には退廃的な90年代の匂いがする。
どうしようもない感情。交われない虚しさ。
子供が青年期に、「現実」と言って、奪われようとする「純粋さ」を表現している時代のような気もする。

虚しさの先に、まだ「現実」はある。
その現実は、よく言われていた「現実」ではなかったと今なら語れる。
「あの頃とは違う音楽が流れている」

その為に、「アルペジオ」が流れないといけなかった。

だから、武道館とともに、実は小沢健二はまた消えてしまうのではないかと思っていた。
一度だけ、その友情のために、小沢健二は奏でて、映画が終わり、一つの物語が終わったからと、アンコールおしまい。と。

しかし、音楽は続いていく。
あふれる愛がやってくる。


そんな僕の妄想。




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