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【小説】ホースキャッチ1−2

 少し前から里紗は何となく体調がよくないと自分でも感じていた。仕事は忙しかったが、これまでも仕事が忙しいことが苦になったことはなく、一ヶ月休みなく働いても平気だった。プライベートでもストレスになる悩みごとがあるわけでもなく、今の不調の原因が自分でもよく分からなかった。

 朝早く目が覚めてしまうことが何日か前から続いていた。もう少し寝たいと思っても眠ることができなかった。いつもの起きる時間になったのでベッドから出ようとすると、首と肩が鉄板でも入っているかのように重く固かった。頭は霧がかかったようにどんよりとして、身体全体が異常にだるかった。ベッドから出るのに時間がかかったが、何とか抜け出し、朝の仕度をした。けれど、メイクをしようとするも何から手をつけていいか分からなかった。洋服選びも進まない。どの服を着るかを決めるのにやけに時間がかかった。朝食は取らずに職場に向かった。

 職場に着き、パソコンを立ち上げ、メールをチェックした。朝イチに打ち合わせが入っているので、会議室に入った。打ち合わせが始まるも頭がぼうっとして人の話が頭に入ってこない。うんうんと頷き、聞いている振りをして、何とか会議をやり過ごした。

「何だろうこの感覚。こんなにだるくて頭が重いのは初めて。単なる風邪とも頭痛とも違う。何をするにも億劫で、辛い」

 自席に戻り、頭が動かなくてもできそうな簡単な事務作業を始めた。簡単な内容で普段なら十分ほどで終わる内容だったが、時間がかかった。部下から「里紗さん、プレゼン資料作ったので、どっちが良いか決めていただけますか」と言われた。いつもは即決するのだが、この日はすぐに決めることが出来なかった。「ちょっと待ってね、よく考えるから」何かを決めるということにとてつもないエネルギーを要した。

仕事をしようにも手がつかなかった。上司や部下に気づかれないよう、できるだけ元気を装った。同じ文章を書いては消し、書いては消しと仕事をしているフリをした。誰にも気づかれないよう、時々トイレの個室に篭り、数分ぐったりした。それから力をふりしぼり、席に戻って、一生懸命に何かをしているフリをした。

昼食は何も食べずに、屋外の目立たないベンチでぼうっとして過ごした。午後は眠たくてつい目をつぶりたくなってしまう。上司から「どうした川上、やけに眠そうだな。昨日夜遅くまで遊んでいたのか?」と冗談半分に聞かれ、「えぇちょっと。友達と遅くまで」とごまかした。午後もしのぎ切った。定時になるとまっすぐに帰宅した。帰りの電車では携帯画面を見ることもせず、ただ目をつぶっていた。

「ただ疲れが溜まっているだけ。ゆっくり休めばまた元気になる」と里紗は自分に言い聞かせ、週末は家でゆっくりと過ごした。それでも身体のだるさはとれなかった。それどころか週が明けると余計会社に行くのが辛くなっていた。

 里紗の不調は日に日に深刻になっていった。夜中に突然目が覚めて、息がつまって胸が苦しくなり、冷や汗が出た。食欲は低下し、料理をする気になれない。休みの日に好きなことをするのさえ億劫だった。テレビを見ても雑誌を読んでも全く楽しいと思えない。頭は働かず、目蓋はいつも重い。少し動くとすぐに息が切れた。何をするにも意欲が湧かなくなっていた。心が重く沈む。もう駄目だ。

 こんな状態が一ヶ月ほど続き、里紗はもしかしたら自分はうつ病ではないかと思い始めていた。けれどそれを認めることができなくて、心療内科に行く決心がすぐにはできなかった。誰にも相談することができず、でも一応は心療内科を調べてはみる。けれどなかなか予約しようとは思えない。やはり自分がうつ病だと認めるのが怖い。うつ病だと診断されたらこれまで築いてきたものはどうなるのだろうか。職場の仲間にはどう思われるだろうか。もう二度と復帰できないんじゃないか。心を病む人は多く見てきたけど、まさか自分がそうなるなんて、やっぱり私は私のことを分かっていなかった。色んな不安が溢れ出て、怖くて、苦しかった。けれど心は動かず涙は出てこなかった。

 それでも流石に限界が来て、幾日かためらいながら、里紗は沈んでいる気持ちを奮い立たせて心療内科を訪れた。待合室に入ると、高い天井や大きな窓から差し込む日の光、漆喰の白い壁や杉の柔らかい床が部屋の雰囲気を明るくしていた。十人くらいの患者が診察を待っていた。親と一緒に来ている女子高校生、里紗と同年代くらいの男性、四十代くらいのスーツを着た男性、高齢の夫婦など様々な患者がいた。ぐったりしている人もいれば、元気そうに見える人もいた。

 里紗は静かに端の方の席に座り、受付で渡された症状チェックシートを記入した。チェックシートには、気が沈むことがあるか、朝が特に無気力になるか、趣味や楽しかったことが楽しめないことがあるか、人生がつまらなく感じるか、自分がダメな人間に思えるかなど、十項目ほどがあり、里紗は今の自分にはそれらが全部当てはまり、さらに気分が沈んだ。

 三十分ほど待ち、奥の個室に通されると、カウンセラーらしき人がいて、その人と少し話をした後、診察室に通された。医師は物腰の柔らかい優しそうな雰囲気をしていた。里紗は緊張した面持ちで自分の状態を話した。医師はゆっくりと頷きながら、穏やか口調で幾つか質問をした。里紗の受け答えはぎこちなかったが、医師は丁寧に話を聞いてくれた。

「どうやらうつ病のようですね。色んなことを頑張りすぎると、自分では気付かないうちに突然心のエネルギーが枯渇してしまう、そんなことが人間にはあります。風邪と同じで誰にでも起こりうることです。まずはゆっくり休息しましょう。仕事のことも煩わしいことも忘れて、まずはゆっくり。状態はきっと良くなります」

 それから医師はセロトニンや脳の神経伝達物質などうつ病のメカニズムに関する話を丁寧にしてくれて、それらを正常な働きに戻す薬と睡眠導入剤を処方した。里紗は医師と話をして少し気が楽になった。自分一人で抱えていた重たい鉛の塊のようなものが少しだけ軽くなった気がした。 

 翌日、里紗は医師の診断書とともに職場に療養休暇願を提出した。

 彼女はしばらくの間、一人暮らしのマンションで静かに過ごした。処方された睡眠導入剤を飲むことで寝つきは少し良くなったが、夜中に目が覚めてしまうことや朝の気だるさはあまり変わらなかった。テレビを見ることも本を読むこともせず、日中のほとんどをベッドの中で過ごした。食欲もあまり戻らず、料理もできそうにないので、喉が通りやすく簡単に食べられるパンなどをコンビニで買ってすませていた。何もしていなくても、掴みどころのない不安感が襲ってきて、気が休まらない。

 十二月の中頃、母からの電話が鳴った。「元気? 正月は実家に帰ってくるの?」と母はいつもながらの早口で話した。久しぶりに聞く母の声に、里紗の目からは数ヶ月ぶりの涙がこぼれた。

『あぁ、ママにはこんな姿を見せたくなかった。私はいつでもしっかりとしたお姉ちゃんでいなくちゃならないのに。ママを悲しませてしまった。ごめんねママ』と里紗は心の中で呟きながら、かすれ声を出した。

「実は少し前から会社を休んじゃっているの。なんか心がね、疲れちゃったみたいなの……ごめん」

 母の受話器を持つ手が震えた。数秒沈黙があった。母は細かいことを聞くことも、余計なことを言うこともなく、ただ「そっか。それは辛かったでしょう。実家に帰ってしばらくゆっくりしなさい」と柔らかい声で言った。


 昔ながらの八畳二間続きの居間、ピアノのある応接間、汚れが目立ってきた台所など、つい半年前にも帰ったばかりで何も変わっていないのに、里紗には実家がとても懐かしく思われた。里紗は荷物を置き、居間のこたつに入って寝転がり、天井を見上げた。座布団と畳の感触が気持ちよかった。身体からふっと力が抜けて、心が少し落ち着いた。

 買い物から戻ってきた母は、玄関の戸を開け里紗が帰ってきたことに気づくと、居間に寝そべる彼女のもとへ駆け寄った。

「お帰り、里紗」とそっと手を握り、優しい眼差しでうんうんと頷いた。

 父が仕事から帰ってきて、三人で食卓を囲んだ。里紗の母は料理が上手なほうではなく、忙しいこともあって、スーパーで買った出来合いの惣菜を並べることが多かったが、この日は、ほうれん草の煮浸し、里芋とイカの煮物、魚介と白菜の鍋、炊き込みご飯などを作った。里紗の好きなものばかりだった。

「母さん、今日はどうしたの? いつものあれと違うね。手作りの料理なんて珍しいじゃないか。しかもこんなにたくさん並べて。里紗がいると、食卓が毎日賑やかになっていいなぁ。いつまで居てもいんだぞ、里紗。残してもいいからな。食べられる分だけ食べなさい」

 里紗はありがとうと小さな声で呟き、料理に手をつけた。いつもより食欲が湧いた。どれも二、三口ずつ食べることができた。食事を終えてお風呂に入り、二階の自室に上がってベッドに寝転がった。母が日中に干しておいた布団が温かった。里紗は枕元に積み上がってあった本の中からミヒャエル・エンデのモモを手にとり、数ページだけペラペラとめくり文字をただ眺めた。それから本を閉じて胸の上に置いて、しばらく目をつぶっていると、そのまま眠りについた。数ヶ月ぶりに深い眠りにつくことができた。朝も目覚めることなく昼前までぐっすり眠った。多少の気だるさはあったが、深い眠りのおかげか霧がかかっていた頭が少しすっきりした気がした。

 一階に下りていくと、台所でお茶を飲んでいた母は里紗の顔を見て頬を緩めた。

「おはよう。ご飯はどうする? うどんでも作ろうか?」

「おはよう。ありがとう。少し食べようかな。ママ布団干しておいてくれたんだね。温かくて気持ちよかった」

里紗と母は居間のこたつテーブルでテレビを見ながら、うどんを食べた。母は「このお昼の番組はつまらないわね」と言ってチャンネルを変えると「これもイマイチだわ。わたしこのコメンテーター好きじゃないのよね。最近よく分からない人が専門家でもないのに中途半端な知識で意見言ったりしているでしょう。あれどうかと思うわ」とたわいもないことを言いながら、うどんをすすった。里紗は微笑して頷いた。里紗は半分くらいうどんを食べることができた。

 昼ご飯を終えると、里紗はそのままこたつ布団に包まり、横になった。そしてそのまま夕方までウトウトした。その日も夜はぐっすり眠ることができた。

 十時か十一時頃に起きて、母と一緒にお昼ご飯を食べて、夕方までこたつで眠り、それから夜ご飯を食べて、夜はベッドで眠る。そんな生活パターンが何日か続いた。睡眠の質が徐々に上がってきて、里紗はこれまでの睡眠不足をまとめて補うかのようによく眠った。食欲も少しずつ回復してきた。

 年末に里紗は再度心療内科を訪れた。医師に眠れるようになってきたことや食欲が回復してきたことなどを話した。

「元気なときが十だとすると、前回はどれくらいで、今はどれくらいか言えますか? 感覚的でいいので」

「前回は三くらいで、食欲や睡眠は少し改善してきたけど、気分的にはあまり変わってなくて、今は四くらいかと」

「なるほど。あまり焦らずいきましょう。睡眠が改善してきたのはとてもいいことです」

「しばらく寝て食べてを繰り返しているだけなのですけど、このような過ごし方でいいのでしょうか。散歩とか軽い運動をしたほうがいいんでしょうか。何かをしようという意欲がまだ湧かなくて」

「今はそれでいいです。過ごしたいように過ごしてください。寝たいと思ったら寝てていいです。無理に運動をする必要もありません。もし何かをしたいという気持ちが出てきたらその時にすればいい。好きなことでも何でも。今は焦らず心の赴くままに過ごしてください」と医師は柔和な口調で言った。

1−3へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/n0219167023d7

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