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【小説】ホースキャッチ1−3

里紗の妹と弟は旅行に行くやら仕事が忙しいやらで、今年の正月は実家に帰ってこなかったので、里紗は父と母と三人で静かに年を越した。父も母も、彼女がどうしてうつになってしまったのか、仕事が原因なのかプライベートが原因なのか、何が起こったのか、今はどんな気持ちでいるのかなど聞きたいことは山ほどあるはずなのに、何も聞くことはなく、たまに話すことといえばたわいもないことばかりで、里紗はそんな心遣いをありがたく思った。長時間無言でいても気まずくならない家族特有の空気感も手伝い、彼女の心を安らかにした。

 川上家の初詣は奥秩父にある三峰神社に行くのが恒例となっていた。父も母も特に信心深い訳ではなく、単に父がそこが好きだという理由で昔から片道二時間もかけて初詣に出かけていた。

「お父さん、今年はいつ三峰に行くの?」と里紗は元旦の新聞広告を読んでいる父に訪ねた。

「今年は近くの神社ですませようと思っているんだ」

「そうなの? 私のことなら気にしなくていいよ」

「あ、いや、そういう訳じゃないんだけど。母さんとも話して、今年は何となくまぁ近くでいいかなって」

「そうなんだ。でももし三峰行くんだったら、私も久々に一緒に行ってみようかなって少し思ったんだよね」

「そうなのか。里紗大丈夫なのか? 行けるのか?」

「うん。分からないけど、多分」

 父は里紗にそんな元気があるとは思えず、彼女を気遣って近くの神社ですませようとしていた反面、こんな時こそ三峰に行って里紗のためにご利益を賜りたいとも思っていたので複雑な気持ちだった。里紗は十二月半ばに実家に戻ってから、心療内科を訪れた時以外はずっと家にこもりきりで、まだ外出する気にはなれなかったのだが、何となく昔の懐かしい場所に触れてみたいとふと思ったのだった。

 三が日の最後の日、三人は父の車で三峰神社に向かった。三峰神社は奥秩父の山岳地帯の標高千百メートルに位置していて、秩父市街から荒川渓谷沿いの街道を上がっていき、秩父湖を過ぎて、そこからさらに山道を上がったところにある。

「三峰神社は数年前に龍神が出たって、拝殿前の敷石に突然赤い目をした龍の姿が浮かび上がったって話題になったなぁ。辰年だったし、あれはびっくりしたな。里紗覚えている?」と渓谷沿いの道を運転しながら父が言った。

「覚えてないな」里紗は首を捻った。

 父はその後も龍の話を独り言のように続けながら車を走らせた。

「あの神社にはあちこち龍の彫り物や絵があるんだ。昔から龍と関係が深いんだよな」

 とか

「荒川の源流があの近くにあるからなのかな。龍は水の守り神だし。このくねくねした荒川も長い大きな龍みたいに見えてくるな」

 とか

「こんな山奥から流れる小さな川が下流にいくとあんなに大きな川になって昔からずっと大都市東京までたくさんの水を運んでいるんだもんな。あんなにたくさんの水が出るんだから山の源流ってすごいな」

 とか

「しかし考えてみると龍ってのは実在していないのに、昔から西洋でも東洋でも似たような姿で描かれているんだから、昔は本当にいたんじゃないかって思っちゃうよね。干支だって他は実在する動物なのに龍だけ違うだろう。不思議だよな」

 とか

「実在してるのに存在感ないやつなんていっぱいいるのに、実在してないのに今でも存在感があるんだから龍ってのはすごいよな」

とか、父が独り言を言っていると、そのうちに三峰神社に着いた。

 里紗は高校生くらいまでは父母に連れられて毎年三峰神社に行っていて、大人になってからも時々は行っていたものの、父の言っているようなことはあまり意識をしたことがなかった。けれど車から出ると確かに神社周辺の空気はとても瑞々しくて、大地から溢れ出ている蒸気が霧になり辺り一帯を覆っていて、龍が現れてもおかしくはない雰囲気だと里紗は思った。高く聳え立つたくさんの杉の木は樹齢何百年になるものばかりだが、どれもこれも若々しくてあと何百年でも生きることができそうに見えた。里紗はそのうちの一本の杉に手を当てて触ってみた。辺りの空気は凍えるほど寒いのに、木の内部にたっぷりと含まれている水が生命力を与えているからなのか、杉の肌はほんのりと温かった。

 正月の神社は当然のごとく初詣客で賑わっていて、その人の多さと久しぶりの長旅で里紗はどっと疲れて、その翌々日までベッドから起き上がれないほどだったのだが、龍が現れてもおかしくなさそうな瑞々しい空気が身体に染み渡り癒されたのと、密かに彼女も龍が好きだったので、やはり行って良かったと思ったのだった。


 正月休みが終わっても、自営業をしている母は忙しい仕事の合間をぬって、里紗の昼と夜のご飯を用意した。出来合いのものや昼も夜も同じものを並べることが増えてきたけど、母は毎日ご飯を用意して、里紗と一緒に食べた。

 弱った里紗の姿を見るにつけ、母の中では、立派な大人に育ち社会のエリート層にも認められるようになった自慢の娘がこんなことになってしまった根源は、もしかして自分にあるのではないかという自責の念が徐々に沸き起こってきていて、それが母を苦しめていた。

『里紗は奔放で独創的な子だったのよね。見よう見まねで歌を歌ったり、ダンスを踊ったり、一人で演技したりするのが好きで、特に絵を描くのが好きだったのよね』

 母は里紗が小さい頃の記憶をたどっていた。

 里紗は保育園の年長の頃から絵を描くのに夢中になり、母に買ってもらったスケッチブックや新聞の折り込み広告の裏面などに暇さえあれば何かしら描いていた。里紗が何色ものクレヨンを駆使して描く絵は、良く言えば独創的かつ神秘的で、幼い里紗にとっては何かしらを表現しているものだったが、周囲の者には色を塗りたくたった落書きのようにしか見えず、それが何を意味しているのかは誰にも分からなかった。一方で母の誕生日などには子供らしい可愛らしいタッチで母の似顔絵を描くことがあり、天真爛漫な笑顔でそれを披露して、母が喜んだ顔を見せると、創作意欲はさらに掻き立てられて、里紗は嬉々として絵を描くことにまた没頭した。

 小学校に入ってからは、里紗はよく宿題用のノートやドリルにも絵を描いていて、当然と言えば当然なのだが、それが先生に見つかるとよく怒られた。里紗のそれがなかなか直らないので、先生は保護者への連絡ノートにそのことを書き、それを読んだ母は「そんなくだらない絵ばかり描いてないで、ちゃんと宿題くらいやりなさい! あなたはお姉ちゃんなんだから、加奈や彰のお手本にならなきゃダメなのよ!」とつい大きな声で彼女を叱ってしまったことがあった。母としてはそんなに目くじらをたてるほどのことでもなかったのだが、自分が始めた事業がまだ軌道に乗る前の頃で心に余裕がなかったこともあって、思わず目を潤ませてそんなことを言ってしまった。

 この事は母に怒られたというよりも自分が母を悲しませてしまったという印象を里紗に強く残した。それ以来、彼女は好きな絵を描くのをやめてしまい、母や先生を煩わせるようなことも一切なくなったのだが、母が里紗を叱ったのはこの時くらいで、母は今でもこの時のことを時々思い出しては後悔することがあった。

 里紗が中学生になると、母は事業が回り出してあちこちと飛び回って家を留守にすることが多くなり、里紗に妹たちの面倒見をさせることが増えてきていた。里紗はしっかりとしたお姉ちゃんとしてその役回りをきちんと果たし、勉強もできる子として成長していった。母はそんな里紗を表面的にはよく褒めてあげていたのだが、今思うと、忙しさにかまけて里紗とのコミュニケーションを十分に取らずにいて、彼女の本当の気持ちを分かってあげられなかったのかもしれないと心を痛めた。

 里紗に何度もごめんねと心の中で言いつつ、でもそんなことを口に出したら、里紗は余計に苦しくなることが分かっていたので、今は何も言わずに里紗のためにできるだけのことをしたいと母は思い、でも自分にできることはあまりなくて、せめてご飯を作って少しでも今は一緒にいてあげようと母は決意したのだった。

1−4へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/ne4bec788fb45


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