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【小説】ホースキャッチ1−4


 母の黙々とした世話と父の無言の優しさにより、里紗の心は少しずつ落ち着きつつあった。気分が良い日には散歩をしたり、母の買い物に付き合ったり、外に出ることができるようになっていった。頭をどんよりと覆っていたものが消えつつあり、幾分ものを考えることもできるようになった。しかしものを考えられるようになると、考えることは自己嫌悪を募らせることばかりだった。こんなことになってしまった自分が情けない、自分はダメな人間かもしれない、そんなことばかりが頭の中を駆け巡る。これなら何も考えられないほうがマシだ。けれど、一度動き始めた人の頭は何も考えないという状態にはなかなか戻れない。せっかく浮き上がってきた心がまた沈んだ。

 一月の終わりに里紗は三度目の心療内科を訪れた。医師に近況を話した。

「外出できるようになってきたことはすごい前進ですね。無理をする必要はないですけど、身体を動かすということはとてもいいことです」

「でも不安感みたいなものはあまり消えていなくて、物事をネガティブに考えてしまっていて、どうにかしなきゃという焦りというかこんな自分じゃダメだという自己嫌悪に陥ってしまって、それで余計にネガティブになっちゃって、それがとても苦しくて。どうしたらいいですか?」

「そうですね。辛いですよね。でもね、どうもしなくていいです。川上さんは何も悪くないんです。悪いことは何もしていないんです。だから自分を責める必要はないんです。難しいかもしれませんが、『今はこれでいい』と思えるようになることが大事です。こんな状態でこれでいいとはなかなか思えないかもしれませんが、それはそれで当たり前なのでそれもそれでいいと」

「今はこれでいい?」

「そう。言うのは簡単ですが心の底からそう思うのは難しいかもしれません。でもそう思えるようになることが大事です。何事も良いとか悪いとか判断をせず、自分のこともあれこれジャッジせず、『今はこれでいい』と思うこと。肩の力を抜いて。ちょっとずつでいいです。自然なタイミングで変わっていきます。川上さんは何も悪くない」

 今はこれでいい?

 里紗がこの言葉に違和感をもつのは至極当たり前のことだった。

 私達の社会では夢や高い志を持つことが奨励され、目標や改革といった言葉に溢れていて、これらの力強い言葉は確かに人を成長させ、社会を良くする方向に向かわせると考えられているので、この裏に現状や自己を否定するという時限爆弾が埋め込まれていて、それがいつの日か人を苦しめることがあっても、「今はこれでいい」という現状を肯定する気弱な言葉は今の社会にはなじまないのであった。

 力強い言葉に鼓舞され続けた者はこの気弱な言葉に戸惑い反発せざるを得ないのだが、それでもこの気弱な言葉は現代社会の新しい福音になり得るもので、里紗は力強い言葉を受け入れたように、素直にこの気弱な言葉も受け入れようと努力をした。


 二月に入った頃、里紗は思い立って瑛太にメールを送ってみることにした。瑛太のことはずっと頭にあったが、こんな無気力な自分を知られるのが恥ずかしいという思いがあって、ずっと連絡ができずにいた。

『ずっと連絡できなくてごめんなさい。瑛太に最後にあった頃から体調が良くない日が続いていて、いわゆるうつ病になってしまったみたい。十二月からずっと仕事も休んでいて、今は実家で療養しています。人と話すのがとても辛くてずっと連絡ができませんでした。やっとメールを送れるくらいの元気は出てきました。心配かけていたらごめんなさい』 

 瑛太はこのメールを何度も読み返し、それから返事をした。

『里紗ちゃん、メールをくれてありがとう。少しでも元気になっているのなら嬉しいです。安心しました。焦らないで。今はゆっくり休養してください。またメールします』 

 それから瑛太は一週間に一度くらいのペースで里紗にメールを送った。何気ない内容だった。


 冬らしく快晴で澄み切った空とうっすらと雪が積もった牧場の写真を添付して

『昨夜少しだけ雪が降ったね。とても寒いけど、馬たちは毎日元気に過ごしています』

 里紗は一言返事を書いた。

『素敵な写真。陸人の牧場、懐かしい』


 亮介と陸人と飲んでいる写真を添付して

『年明けに三人飲んだ時の写真です。柄にもなく今年の抱負を語り合ったけど、今頃はすでにみんな忘れているでしょう』

『相変わらず仲良し 笑笑』 


 里紗と行った銀座の和食屋の写真を添付して

『里紗ちゃんと行った和食屋がとても美味しかったので、先日陸人を連れて行ってきました。ブリしゃぶを頼んだら、陸人がこんなに美味いブリ初めて食べた。まじで美味い!って感動していました』

『そこのブリしゃぶ美味しいよね。私も好き。もう少しするとねタケノコご飯が出てくるんだけど。それも私好き』


里紗が赤ら顔で馬に乗っている写真を添付して

『里紗ちゃんが夏に乗ったキャナル。最近はクラブで子供達からとても人気です』

『いつの間に撮ったの? 恥ずかしい。馬すごく楽しかったな。元気になったらまた行きたい』


 そんな他愛のないやりとりだったが、それでもそれは雪解けの足音を確かに鳴らした。

 三月になり、牧場は寒さが少し和らぎつつあったが、それでも朝夕は真冬と変わらず冷えた。朝早く地面から湧き上がる水蒸気が朝日に照らされて、馬場一面が黄金色に輝く神秘的な光景が時折現われた。瑛太はそれを見ることができると、神妙で有り難い気持ちになり、寒さに負けず今日も頑張ろうと自分を奮い立たせた。

1−5へ続く
https://note.com/okubotsuyoshi/n/n76ea95e5cfc8


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