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【小説】ホースキャッチ1−5

教授が今年に入り初めて牧場に顔を見せた。教授はカウボーイハットを被り、手には土産物らしきものを持っていた。

「久しぶりだね。瑛太くん。一月二月はアメリカに出張していてね。ホースセラピーの研究のために時々行っているんだ」と言って教授は瑛太に手に持っていたお土産を渡した。

 教授は五年程前からこの牧場の乗馬会員で、毎週のように通っていた。

 通常の会員は乗馬だけで他のことはあまりしないが、教授は自ら望んで馬房の掃除や餌やりなど馬の世話もするという風変わりな教授だった。最近は調馬索も陸人や瑛太から教わるようになっていた。教授は他のクラブ会員とはあまり会話をしなかったが、瑛太には不思議とよく話しかけてきた。

「ありがとうございます。そのカウボーイハット似合いますね」

「これね、アメリカの知人からもらったんだ。せっかくだから牧場にきた時は被ろうと思ってね」

 教授はハットを触りながら馬場に設置されている鏡を満足げに見た。

「ところで、今さらなんですけど、教授って何が専門なんですか? ホースセラピーがそうなんですか?」

「言ってなかったかな。専門は医学だよ。一応医者なんだ。今は臨床医ではなくて、もっぱら大学で研究のみだけど。で、何でホースセラピーかというのは話すと長くなるのだけど、簡単にいうと、こういうことかな。人の身体を見ていると、万人には当てはまらないような、再現性のないことがたくさんあって、今の技術では分析できないものもたくさんある。今認知されている病気だってほとんどは原因が解明されていないんだ。DNAだって数パーセントの遺伝子くらいしかまだ分かっていない。つまり人間や世界のことって科学的に証明されていないことばかりなんだ。科学は確かに様々な法則を発見することができる。ニュートンにしてもアインシュタインにしてもそうだよね。まぁそれらも百年後には間違いだと言われているかもしれない。それらの法則はあくまでそうなっているという説明だけで、本当のところは分からないし、なぜそうなっているかは科学では説明できない。美しい法則もその美しさ自体は説明できない。何というかな、どれだけ追求しても、きっと我々の知性では神秘としかいえないものがあるんだよね。それなのに研究とかしていると周りに科学的に説明できないことは一切認めない科学信仰みたいな人が多くてね。理解できない事象に出会うと脳がフリーズするってやつね。そういう人達と議論するのがバカらしくなってね。理解できないことが面白いと思うんだけどね。それで重箱の隅を突っつくような研究に飽きてきて、ここ数年は哲学とか宗教とか文学とかあらゆる分野に手を出すようになってきて、そのうちなぜか馬というものに出会って、実際馬に触れてみて何かしらの神秘を感じて、それに惹かれるようになった。と簡単に言うとそんな感じかな」

「どこかの物理学者とかもそういうようなこと言っていたのを聞いたことあります。中身はよく分かりませんが。それでホースセラピーというのは以前も少し聞いたことはありますけど、せっかくなのでもう少しお聞きしてもいいですか?」

「そうだね。ホースセラピーというと一般には身体に障害がある人に用いられるものと思われている。だけど海外ではそれだけじゃなく、精神的な障害のある人にも効果があるとされているんだ。国によってはホースセラピーが医療保険の適用になっているところもある。ホースセラピーには長い歴史もあって、古い文献にも馬に関わると人は肉体的にも精神的にも元気になると書かれている。それが現代になって本格的に研究されてきていて科学的にも認められつつあるんだよね。日本では全然だけどね」

「へぇ、そうなんですね。それは要するに馬に乗ることはとても良いっってことですね」と瑛太はいった。

「そうだね。馬に乗るのはすごく意味があるし、乗らずにセラピーする手法も開発されている。僕はここ数年そういうのを学んだり研究したりしているわけだ」

「だから、つまり、うつになってしまった人にも効果があるってことですよね?」 

 この時、瑛太の念頭にあったのは、もちろん里紗のことだった。

「人によって性格やうつになる原因が違うから一概には言えないけど、実際にうつ病が改善された事例はある。自閉症の子が良くなった、不登校児が学校に行けるようになったという事例もある。どういうメカニズムでそういう効果があるのかを説明するのは難しいんだけど、実際にそうなっていることは事実。僕は馬にはすごい可能性があると思っている」

「それはすごいですね」

「僕自身もここに通うようになって五年だけど、馬の世話をして、馬とふれあうことで、性格まで変わってきている気がする。馬が単に気晴らしになるとかストレス解消になるとかそういうとのは違う、もっと根元的な何かがある。意識されない身体知に語りかけてくるような何か。身体が本来の世界をありのままに感じられる何かがあるような気がしている。瑛太くんも何か感じるものがあるんじゃないのかな。これだけ長くここにいるということは」

「うーん、どうなんでしょうね」

瑛太は上を向いて考えるそぶりをした。

「教授、ところで去年の夏頃に一度だけここに連れてきた里紗っていう女の子を覚えていますか? 実は彼女が少し前から心を病んじゃっていまして」

 瑛太は彼女がうつになってしまったことや現在の彼女の状況を話した。

「なるほど。失礼な言い方だけど、それは興味深い。詳しく聞きたいのでお昼にゆっくり話そう」

 昼になり、瑛太と教授はクラブハウスで昼食をとりながら、朝の続きを話した。瑛太は改めて里紗の状況、ここ半年間の様子、性格、仕事上のキャリアなどについて知っている限りを話した。

「そもそも何で彼女がうつになってしまったのかがよく分からないんですよね」

 教授は少し考えてから、こんなようなことを言った。

「彼女の場合、単に燃え尽きたとか、仕事が辛くなったとか、そういうのとは違う気がするな。あくまでも想像だけど、原因は多分こういうことじゃないかな。自分が人生に求めていることがあるだろう。こうなりたい自分といってもいい。それを目標に一生懸命やってきて、今やっていることの先にそれがあると思う。理想通りにある程度まで進んできた。達成感も感じている。けれど心はなぜか満たされない。その時、何かに触発されて、はたと思う。この先に自分が本当に欲しかったものがあるのだろうか、もしかしたら自分は間違った道を歩んできてしまったのではないだろうかと」

「それはつまり、彼女がこれまでやってきたことは本当にやりたいことではなかったということですか」

「簡単に言うとそうだね。そういったことに気付かない人もいるし、気付いたとしてももう遅いかと諦める人もいる。大半がそうだろう。でもそれでも諦められない人がいる。そういう場合、このまま進んじゃ駄目だと、知らず知らずのうちに脳の働きがストップしてしまう。身体が脳にストップをかけると言ってもいいかもしれないね。身体は正直だからね」

「それがつまり身体知ってやつですか?」

「そうだね。身体の声を素直に聞くことができなくなってしまっていると言ってもいい。長年築きあげてきた信念体系が妨げとなってね。まぁ、あくまで僕の仮説にすぎないけどね」

 その時瑛太はいたたまれない程の物寂しい響きを伴った里紗の一言を思い出した。

『私はきっと誰にも理解されないんだって感覚があるの。でもそれは私が悪いの』

 瑛太には里紗の苦しみの片鱗が見えた気がした。

 世界とのどうにもならない分離感。彼女の寂しさの裏には、全体性への強い渇望があったのかもしれない。寂しさはそれをどうしても諦めきれないという強い情熱と表裏一体だったのかもしれない、と瑛太は思った。

 そして事実、その通りだった。

 これまで里紗は実際的にも、倫理的にも、誠実に生きてきたはずだった。彼女の美しい船は予想図通りの航路を順調に進んでいたはずだった。それは周囲には羨望の念を抱かせ、親には安心を与えた。里紗は軽やかに舵を取り、その船を正しく導いていることに充実感を覚えた。その船は岩礁をものともしないほど堅固だった。

 けれども青い空に輝く太陽はどれほど陸地から遠ざかっても、里紗に安らぎを与えはしなかった。徐々に彼女は自分の舵取りに不安を覚えて、舵を握る手は震え、溢れた涙は航海図を濡らした。

 突如として、里紗は合理を貫く自分の理性を信じられなくなった。里紗の理性は世界との間の埋められない断絶から彼女の目を背けさせた。彼女に断絶を抗えないものとして甘受させた。その一点において彼女は自分自身に対して不誠実であった。裏切りの、鮮血が大海原に飛び散り、寂しく物悲しい響きが静かな海にこだました。


「教授、ホースセラピーをここで里紗ちゃんのためにできないでしょうか。教授の指導のもとで」

 瑛太はとっさに自分の口からそんな言葉が出てきたことに驚いた。教授は腕を組んでしばらくの間考えた。

「本人がどう思うか分かりませんが、直感的に里紗ちゃんの場合、相性がいいような気がして」瑛太は少し息を荒くした。

「うーん、瑛太くんがそう言うなら試しにやってみようか。僕にとっては研究の一環にもなるし」

「ありがとうございます。タイミングを見て里紗ちゃんに聞いてみます。あと陸人にも相談してみましょう」

 瑛太と教授は陸人に事情を説明した。

「ホースセラピーかぁ。それはいいかもしれないね。瑛太と里紗のために出来ることなら何でも協力するよ」

2−1へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/n38e9c142bb8a


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