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【小説】ホースキャッチ2−1

 曙光の春。まだ手の届きそうな太陽と生暖かい風が生命に新たな息吹を吹き込み、舞踏する大地と春しぐれが芽生えた生命を地上へと誘う。春の引力は流転するあらゆる生命に再生を促す。

 人もまた春の引力に抗うことなく、前を向かなくてはならない。絶望の中に芽生える希望と希望の中に渦巻く不安に翻弄されながらも歩みを止めてはならない。

「あぁ、楽になりつつあるな」

 四月になり、里紗の体調は回復の兆しを見せた。堂々巡りだった思考の混乱は収まり、どんよりとした自己嫌悪感もなくなりつつあった。里紗は少し前から近所の公園を散歩するのを日課にしていて、三月の終わり頃は公園の桜の花が開いていくのを毎日眺めていた。日に日に桜の花は満開に近づき、あっという間に花びらが散り始めた。「あぁ綺麗」と彼女の口から言葉が溢れた。ここ数ヶ月美しいものに触れても反応しなかった里紗の心がやっと動くようになってきていた。

 療養休暇を取ってから四ヶ月が経っていた。里紗は自分の状態がだいぶ良くなってきたと感じていて、そろそろ仕事に復帰できるかもしれないと少しずつ考え始めていた。

『不安はある。家族と医師以外は誰とも会ってないし、瑛太とたまにメールしているくらいだ。そもそも人とちゃんとコミュニケーションが取れるか分からない。でも職場のことも気になりだしてきた。みんなにどれくらい負担をかけてしまっているのだろう。私が立ち上げたプロジェクトがどうなっているのだろう。けれど今復帰して前みたいにできるのだろうか。あまり自信はない。それにまた病んでしまったらそれこそもっと迷惑をかけてしまうだろう。周りの人は私のことをどう思っているだろうか。冷たい視線を投げかけられるのか。いやみんな気遣って優しく接してくれるだろう。でもそれはそれで変によそよそしい雰囲気になりそうでなんか嫌だ』

と、里紗は仕事への復帰について自問自答を繰り返していた。

 彼女は医師に相談をしてみることにした。

「元気な時が十だとすると、今はどれくらいですか」

「今は六か七くらいです。気分が落ちることもなくだいぶ平穏に過ごせるようになってきました。毎日散歩したり身体も動かしているので体力も戻ってきていて、前のように変に疲れることなく普通に生活できるようになってきました。なので、職場にいつ頃戻ったらいいかを最近考えています。先生どう思いますか?」

「療養休暇を取ってからだいたい四ヶ月ですね。毎月の様子を見ていて、顔つきも声のトーンも変わってきているので、だいぶ良くはなっているように私も感じます。仕事については川上さんの気持ちと職場の状況によるかと思います。川上さんが戻らないと職場の仕事が回らない状況なのか。それほどでもないけど、いつまでも周りに迷惑をかけてはいけないという焦りの気持ちからなのか。それとも前のように仕事がしたいという気持ちが湧いてきているのか。自分の心とよく向き合って決めたらいいと思います」

 里紗は少し考えてから次のように言った。

「そうですね。私がいないと回らないという状況でもないと思います。もうすでに4ヶ月休んでしまっているし、大きい会社ですから代わりもいくらでもいますし。でも関わっていた仕事がどのような状況なのかは気にはなります。同僚にもきっと負担をかけているだろうなと思っています。一ヶ月前は申し訳ないと思いつつ、そんなに気にかける余裕もなかったのですけど、今は少しそういうことを考えられるようになってきました。前のように仕事がしたい気持ちになっているのかというと、うーん、何とも言えませんし、前のようにできるかといわれると自信もあまりないです」

「大企業でのお仕事は大変なものでしょうから、本人が思う以上に精神的な負担がかかるものです。川上さんのように真面目で一生懸命取り組んでしまうタイプの方には特に。きっと手を抜いてお仕事できない性格でしょう。そういう場合、復帰してもまたぶり返すこともよくあります。まだ休暇をとっていても会社にもそれほど迷惑がかからなくて、川上さん自身にもお給料のことなどで問題がないのであれば、焦らなくてもいいかもしれませんね。川上さんのような方なら仕事がしたいという気持ちが自然と湧いてくるでしょうから」

「一度上司にも相談してみたほうがいいでしょうか?」

「そうですね。以前にうつは心の風邪のようなものと言いましたが、身体と違って心の繊細な部分の問題ですので、良くなってきたとはいえ、上司がこういうことに理解を示せる方なのか、川上さんとどれくらいの関係性なのかなどにもよると思います。川上さんが気兼ねなく話して大丈夫と思えるのなら、相談してみてもいいと思います」

「分かりました。上司は仕事のことを何も考えずに休めと言ってくれて、休んでいる間も気を遣って何も言わないような方なので大丈夫かと思いますが、焦らずに少し考えてみたいと思います」


 里紗が上司に連絡をしようか迷っているところに、ちょうど瑛太からメールがあった。瑛太は里紗から返ってくるメールのトーンが大分明るくなってきていたので、そろそろ彼女を牧場に誘ってもいい頃かと考えていた。

「里紗ちゃん、今度牧場に遊びに来ない?」

「うん。行ってみようかな。暖かくなってきたし」

 まだ人に会うのが少し怖い気持ちもあったが、里紗は思い切って行ってみることにした。

 ほぼ半年ぶりの再会だった。

「瑛太、誘ってくれてありがとう。メールも何度もありがとね。元気づけられた」

 里紗の声にはいくらか張りが戻り、虚ろだった表情には以前のような明るさも戻っていた。けれども笑顔はまだ里紗本来の笑顔ではなかった。それでも、元気になりつつあった里紗の様子を見て、瑛太はほっと胸を撫で下ろした。

 陸人も近づいてきて声をかけた。

「やぁ里紗、元気そうでよかった。みんなで心配していたよ」

 三人とも緊張と嬉しさが入り混じる気持ちで二の句が継げなかった。

2−2へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/ndd00a4d36916


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