怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原 ④その後の戸山ヶ原
二十面相が戸山ヶ原にアジトを構えていた頃、日本は、東京オリンピック招致に向けて動き出していた。開催予定は昭和15年。そして、昭和7年、正式に立候補を果たすと、昭和10年のロサンゼルスでのIOC総会で、ついに東京オリンピックの開催が決定された。
さらには、昭和11年というから、奇しくも、「怪人二十面相」が発表された年、戸山ヶ原の屋内射撃場がオリンピックの射撃競技に使われることが決まった。「大人国のかまぼこ」が、世界の表舞台に躍り出ることになったのだ。それにしても、二十面相と小林少年が駆け引きを繰り広げていたその戸山ヶ原で、オリンピック開催の準備が進められていたということに驚かされる。もちろん、戸山ヶ原の射撃場は「東洋一」とも謳われていたから、当然といえば当然だろう。
一方で、小林少年がアジトの窓から射撃場を見たのが昭和10年以前だから、この時の小林少年が、東京オリンピックの開催決定を知っていたかどうかは、ギリギリのところだ。まして、射撃場がその競技会場として使われることは知らなかったはずだ。
ところが、昭和6年の満州事変を機に、情勢は動き出していた。昭和8年、満州国建国に端を発する国際連盟からの脱退は、日本の国際的な孤立を決定づける。そして、昭和12年の日中戦争開戦の翌年、昭和13年には、とうとう、オリンピック開催の辞退を決定したのである。戸山ヶ原のオリンピックは幻と終わった。日本は、こうして、泥沼の太平洋戦争へと足を突っ込んでいく。
ちなみに、「怪人二十面相」で二十面相と初対面を果たす直前、明智は満州にいた。満州国からの依頼で、ある重大事件を解決したのだという。戦後のポプラ社版などでは「某国」と訂正されているが、昭和11年の講談社版などでは「満州国」となっている。明智が、関東軍とともに何らかの活動をしていた節があることだけは、忘れずに書き記しておこおう。
戸山ヶ原のアジトは小林少年の活躍によって暴かれ、二十面相は逃亡した。おそらく、二度とアジトに戻ることはなかったはずだ。ただし、戸山ヶ原で小林少年から受けた屈辱は、二十面相の運命を大きく変えることとなる。続く「少年探偵団」事件や「妖怪博士」事件は、小林少年や少年探偵団への復讐譚でもある。しかし、その後、二十面相はぷっつりと消息を絶ってしまう。
戦後になって発表された「青銅の魔人」で、二十面相の好敵手明智小五郎は、こんなことを言っている。
「奥多摩の鍾乳洞で会ってから、もう何年になるかな。あの時きみはすぐ刑務所に入れられたが、一年もしないうちに、刑務所を脱走して、どこかへ姿をくらましてしまった。さすがに戦争中は悪事をはたらかなかったようだが、戦争がすむと、またしても昔のくせをだしたね。」
「奥多摩の鍾乳洞」は、「妖怪博士」のクライマックスであり、二十面相が逮捕された場所だ。二十面相はその後、一年足らずで脱走したという。平山氏の考察では、脱走は昭和9年頃のことだ。そして、それ以降、姿を現していない。私は、「怪人二十面相」の発生時期について、その可能性の幅を昭和6年から昭和10年とした。同じく、「妖怪博士」についても昭和12年発生の可能性もある、とした。つまり、二十面相が消息を絶った時期については、昭和9年から昭和13年までは、その可能性がある、ということだ。日中戦争が開戦したのが昭和12年。大本営が設置されて日本は戦時国家となり、さらには翌年、国家総動員法も施行された。戦争が激化して、日本全体が太平洋戦争へと向かっていくその時に、表舞台から姿を消したことになる。もちろん、二十面相の蒸発と戦争との因果関係はわからない。どこへ行ったのか、何をしていたのか、あの明智でさえ知らないというのだから。
名前も戸籍も持たない怪人のように思われがちな二十面相だが、その本名を「遠藤平吉」といって、サーカスの曲芸師だったことを、戦後になって、明智に突き止められている。(「サーカスの怪人」昭和32年)二十面相、いや、遠藤平吉のもとに赤紙が届いていたとしても不思議ではないだろう。陸軍に配属され、戸山ヶ原で訓練を受けていた可能性だって捨てきれない。あるいは、いち早く帝都を離れ、得意の変装を重ねながら、ひっそりと身を潜めていたのかもしれないし、大陸に渡った可能性さえあるだろう。もちろん、戦地に赴いても、逃亡を続けていても、この時代を生き延びる保証はない。ちなみに平山氏は、二十面相がサーカスに所属していたのは、この行方不明時代ではないかと推測している。
昭和20年、大きな戦争が終わり、戸山ヶ原の大久保地区と箱根山地区はGHQに接収された。射撃場は、第七騎兵隊が使ったという。騎兵隊は、その後の朝鮮戦争にも参加している。無人だった二十面相の洋館も、一度はGHQの手に落ちたはずだ。一方、日中戦争開戦以降、鳴りを潜めていた二十面相も、およそ10年ぶりに活動を再開する。昭和24年に発表された「青銅の魔人」が、二十面相の復帰作となったのである。平山氏の考察によれば、「青銅の魔人」は、昭和20年か21年というから、つまり、終戦を待ってすぐに、二十面相は動き出したことになる。
昭和33年には、GHQの接収を解かれ、射撃場も取り壊された。
その頃も、乱歩は、二十面相と小林少年の対決を報告し続けており、それは、昭和39年の「超人ニコラ」まで続くことになる。
おや。ちょっと待ってほしい。
本当に、二十面相は戦火をくぐり抜け、劇的な復活を果たしたのだろうか。
また、戸山ヶ原に監禁された頃におそらくは中学生だったはずの小林少年が、戦後、それも昭和30年代に入っても、まだ「少年」というのは、さすがにおかしくはないだろうか。
この疑問は、少年探偵団シリーズにおける永遠の謎であり、考察や憶測は後を絶たない。実際、戦後に復帰した二十面相は実は別人だという説は根強いのである。戦後の小林少年は二代目で、初代の小林少年は、戦後に二代目明智小五郎になり、また別の少年が、二代目小林少年になった、などと、まことしやかに囁かれてもいる。そうでもしないと、矛盾してしまうことが多すぎるのだ。
北村想のパスティーシュ小説「怪人二十面相・伝」も、二十面相二人説を踏襲している。初代二十面相の正体は、サーカス団にいた遠藤丈吉であったが、乗っていた気球が爆発し、行方不明となってしまう。戦後に復活した二代目二十面相は、その弟子の遠藤平吉だったというのだ。そして、かつての小林少年も、また、明智の跡を継いだことになっている。
いや、戦後だけでも、三人の二十面相がいる、とする説もある。二十面相も、明智小五郎も小林少年も、世襲制度を導入しているという推測が当たり前のように繰り広げられている。そればかりでなく、明智の愛妻・文代さんは、ある時期に、二十面相の元に走った、などとする驚天動地の説もある。明智と小林少年、そして、二十面相を巡る謎は闇が深い。この話は、また改めて考えてみることにしよう。
広大な敷地を誇った戸山ヶ原、その大久保地区は、現在は、戸山公園大久保地区や、早稲田大学西早稲田キャンパス、そして、区立中央図書館などに様変わりしている。今も公園内の起伏が激しいのは、往年の土塁を切り崩し、残土を均したその名残りだろう。おそらく、この盛土の奥深くには、今でも、赤土にまみれた弾丸が埋まっているはずだ。
公園の南端には、当時の土塁の一部が残っている。昭和40年代にはこの土塁で遊べたのだが、今では立ち入ることは出来なくなってしまった。
現在の百人町地区で、戸山ヶ原の面影を残しているのは、山手線沿いの西戸山公園一帯だろう。高台に繁った雑木林は今も健在だ。ただし、かつては大勢を占めていた楢の木は、今ではほとんど見られない。銀杏、レバノン杉、欅、槐など、雑多な植生は、当時のままなのか、戦後になって手が加わったものなのか、それはわからない。ただ、この風景のどこかに、古い洋館があったのは間違いない。陸軍科学研究所の跡地には、東京山の手メディカルセンターや桜美林大学が建っている。「黒手組」の一本松はもう存在せず、その跡地には、西戸山公園(西側)があるばかりだ。
怪人二十面相が戸山ヶ原の古い洋館に棲みつき、その地下室に小林少年を監禁してから、およそ90年の歳月が過ぎた。新大久保駅と高田馬場駅の間、山手線をはさんで、広大な野原があったことなど、現在の私たちには想像もつかない。
大久保に存在した広大な野原。その名を戸山ヶ原という。確かに、現在の私たちには想像もつかない。しかし、その痕跡や記憶は間違いなく残っている。
二十面相が歩いた雑木林、小林少年が目にした大人国のかまぼこ、そして、赤土、三角山、銃声、戸山ヶ原は今もどこまでも広がっている。小林少年は、戸山ヶ原の北がわ、西よりの一隅 、古い洋館の窓から、今も、私たちを覗いているのである。
参考文献
■江戸川乱歩作品・研究・パスティーシュ
江戸川乱歩『怪人二十面相』ポプラ社 2009
江戸川乱歩『少年探偵団』ポプラ社 2008
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江戸川乱歩『青銅の魔人』ポプラ社 2008
江戸川乱歩『サーカスの怪人』ポプラ社 2008
江戸川乱歩『黒手組』(『算盤が恋を語る話』所収)創元社 2009
江戸川乱歩『黄金仮面』創元社 1995
江戸川乱歩『愛蔵復刻版少年倶楽部名作全集 怪人二十面相』講談社 1970
住田忠久編著『明智小五郎読本』長崎出版 2009
富田均『乱歩「東京地図」』作品社 1997
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松山巌『江戸川乱歩と東京』PARCO出版局 1984
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『新修新宿区町名誌』新宿歴史博物館 2010
『新宿区の民俗(6)淀橋地区篇』財団法人新宿区生涯学習財団新宿歴史博物館 学芸課 2003
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東京府青山師範学校附属小学校教育研究会編『東京府郷土教育資料郊外篇』1930
芳賀善次郎『新宿の今昔』紀伊國屋書店 1970
茅原建『新宿・大久保文士村界隈』日本古書通信社 2005
濱田熙『記憶画 戸山ヶ原 今はむかし・・・』自費出版 1993
『昔ばなし』上落合郷土史研究会 1988
宮脇伊三郎『東都百一景』にひはり社 1934
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加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』岩波書店 2021
半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社 2009
筒井清忠編著『昭和史研究の最前線』朝日新聞出版 2022
橋本一夫『幻の東京オリンピック』講談社 2014
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北原白秋『白秋全集27』岩波書店 1987
今野真二『北原白秋』岩波書店 2017
中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』NHK出版 2012
川本三郎『白秋望景』新書館 2012
海野十三『海野十三全集第6巻』三一書房 1989
松村英一『初霜』改造社 1936
貝塚爽平『東京の自然史』講談社 2020
内藤千代子『生ひ立ちの記』
曽宮一念『海辺の溶岩』創文社 1957
加賀乙彦『自伝』ホーム社 2013
加藤廣『昭和からの伝言』新潮社 2016
東京市国語教育研究会編『東京市標準文集』1937
池波正太郎『江戸切絵図散歩』新潮社 1993
黒井千次『父たちの言い分』新潮社 1981
林芙美子『心境と風格』創元社 1939
川本三郎『林芙美子の昭和』新書館 2003
岡本綺堂『岡本綺堂随筆集』岩波書店 2007
葛原しげる『姫百合小百合』洛陽堂 1922
飛田穂洲『野球清談』東海出版社 1940
前田夕暮『素描』八雲書林 1940
明治製菓社史編集委員会『明治製菓の歩み』明治製菓株式会社 1968
杉﨑行恭『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』JTBパブリッシング 2013
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