見出し画像

蟹川の文化誌 もうひとつの蟹川

太宗寺境内にて


 蟹川には、歌舞伎町あるいは西新宿を水源とする本流の他に、ひと筋の支流が存在する。支流は、今の新宿六丁目で本流と出会い、流れをひとつにすして北へ向かうのだが、その支流の水源とされているのが、新宿二丁目の太宗寺付近である。

太宗寺の境内

 浄土宗の古刹・太宗寺は、靖国通りと新宿通りの狭間に位置しており、新宿御苑からも近い。1596年頃に太宗という僧侶が結んだ草庵を前身として、1668年に建立されたとされ、長きにわたり、徳川家康の家臣・内藤家の菩提寺であった。内藤家は、1590年に家康より広大な領地を拝領したが、その拝領地内に町屋が作られ、のちの「内藤新宿」開設につながる。つまり、太宗寺は、新宿発祥の地としてこの町を見続けてきたのである。
 中でも、1814年に作られたという閻魔像は、「内藤新宿の閻魔さん」として江戸庶民の信仰を集めてきた。太宗寺は、盛り場としての内藤新宿の中心地でもあったのだ。

 太宗寺について、三田村鳶魚が書いている。

 「一番新宿の盛んであったのはやっぱり文化文政の頃であって、太宗寺の山開きといえば、江戸中に誰知らぬ者もなかった。あの名高い閻魔の賽日、正月と七月とに後園を開放する。それが山開きなのである。太宗寺の庭は今日(大正十四年)でも、さすがに幽邃な趣きを残して昔のおもかげがしのばれるが、維新前は大きさも現在のようではなく、四境遠く市街を離れ、古木老樹の茂みに奥深く、泉石の苔滑らかな様子は、いかにも閑寂を極めたものであって、夏の暑さもここでは忘れてしまったという。」
       (三田村鳶魚「江戸生活事典」)

 閻魔像だけではない。高さ3メートルに及ぶ「銅造地蔵菩薩座像」という巨大な菩薩が鎮座し、境内を見おろしている。江戸から出ている五街道に六体作られた江戸六地蔵のひとつだという。そして、この菩薩像で遊んでいたというのが夏目漱石である。漱石は、1867年、慶応3年に生まれているが、明治4年頃から太宗寺の裏手に住んでいた。漱石の自伝的小説と言われる「道草」には、次のような一節がある。

 「路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」(夏目漱石「道草」)

漱石がよじ登った菩薩像

 健三は漱石自身であると考えられるから、幼き日の文豪も、実際にこんなやんちゃをしていたのだろう。続けて、漱石は境内の様子を次のように描いている。

 「葭簀の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まっていた。周囲には躑躅が多かった。中には緋鯉の影があちこちと動いた。濁った水の底を幻影のように赤くするその魚を健三は是非捕りたいと思った。」(「道草」)

 太宗寺の庭には池があったという。石で囲まれ、藤棚が釣ってあり、池には緋鯉が泳いでいる。この池こそが、蟹川支流の水源であった。

 太宗寺が実家の菩提寺だったという内藤頼博氏は、「新宿とのゆかり」という文章の中で書いている。

「私の子供の頃、太宗寺の境内は広かった。庫裡の庭には大きな池があって小舟が浮かんでいた。」(「地図で見る新宿区の移り変わり」所収)

 内藤氏は明治41年生まれだから、「私の子供の頃」というのは、明治時代末期から大正初期にかけてのことだろう。

 明治時代の終わり頃の新宿を知る古老からの聞き取りをまとめた「古老の話・あれこれ」(「豊多摩郡の内藤新宿」所収)に、その当時の太宗寺の様子が語られている。

 「太宗寺の池は大きくてきれいでした。お庭のながめもよく、水もわいていたのですが、最近の地下鉄工事ですっかりかれてしまったそうですね。」

 聞き取りを行ったのは昭和40年のことだから、この「最近の地下鉄工事」というのは、昭和34年に開業した丸の内線新宿御苑駅の工事のことだろう。新宿御苑駅は太宗寺から徒歩2、3分ほどの距離にあり、その掘削工事が水脈や地下水に影響を与えてしまったということかもしれない。
 ただ、実際には、池があった太宗寺の北側は昭和25年に新宿区に移管され、昭和30年に「新宿区立新宿公園」となっている。その際に池も埋め立てられたというから、この時代にはすでに池そのものは存在していなかった。それでも、境内にはしばらく水が沸いていたようだ。古老は、この湧水の枯渇を語っているのだろうか。

 昭和27年に新宿二丁目で生まれた評論家の平井玄氏は、さきほど引用した、漱石の描いた太宗寺に触れた後、こんなことを書いている。

 「この時から九十年近く経った戦後、私の記憶にある一九五〇年代終わりでも、社務所裏の土手から垂れ下がる枝葉や藻に被われた水面は昼でも暗く、夜など幽霊でも出そうな沼地だった。戦後の少年たちもこの池で鮒やザリガニを捕って遊んだ。太宗寺公園と呼んでいたと思う。」
          (「愛と憎しみの新宿」)

太宗寺の池の記憶を伝える新宿公園の噴水

 1950年代の終わりといえば、昭和30年代の半ばである。すでに書いたように、太宗寺の北側は公園となり、漱石が描いた池はすでに埋め立てられて存在していないものの、残された境内には水がまだ湧いていた。平井少年が遊んだ「沼地」というのはそのことだろう。この時、蟹川の水脈はまだ生きていたことになる。先の古老が語った、水を枯らせたという地下鉄工事が終わり、新宿御苑駅が開業した頃だ。平井少年たちが遊んだ時代には、水源の痕跡がかろうじて残っていたのだろうか。もしかしたら、彼らはその最後の目撃者だったのかもしれない。
 いずれにしても、蟹川支流の水源は、昭和40年頃には失われてしまったようだ。失われた水源を記憶し、今に伝えているのが、公園に作られた噴水である。

蟹川支流は太宗寺から北へ向かう

水源をめぐって

 ところが、太宗寺の池は、蟹川のいくつかある水源のひとつでしかないという。太宗寺のすぐ西側には高松家の屋敷があった。1697年に宿場町・内藤新宿を開くよう幕府に願い出た町人のひとりに高松喜兵衛がいて、その後、高松家は、代々、宿場の名主を勤めてきた。その高松家の屋敷にも池があったというのだ。先の古老は、この池についても語っている。

 「それはそれは広いお邸で邸内には山あり池あり林あり、大きな森の中にはいったような気持ちでした。」 (「古老の話・あれこれ」)

 太宗寺附近は谷頭になっており、何箇所かで湧水が出ていたというのは、地形的にも極めて自然なことだろう。

 もっとも、水源はそれだけではない。

 「新宿の消失河川『蟹川』に関する一考察」(新宿つつじの会)の中で、野嵜正興氏と中垣耕三氏は、江戸享保年間以前に玉川上水から水路が引かれたようだと指摘している。確かに、1718年つまり享保3年直前のものとされる「内藤新宿絵図」(花園神社所蔵)に、その水路を認めることができる。玉川上水は、甲州街道と青梅街道が分岐する、いわゆる「追分」付近の天龍寺のあたりで分水し、その水路が、上水の左岸を並行するように延びている。そして、太宗寺の南まで来ると、向きを北に変え、そのまま太宗寺の敷地に流れ込んでいるのである。野嵜氏らが語るように、享保年間以前に、玉川上水から水路が引かれていたのだ。
 先の古老の記憶をもとに作成した、明治35年前後の内藤新宿を再現した手書き地図にも、太宗寺の池からさらに南側、つまり玉川上水寄りに少しだけ延びた水路が描かれている。これは、享保以前に築かれた水路の痕跡を示すものだろう。
 また、明治30年初期作成の「東京府豊多摩郡内藤新宿町地積図」にも、太宗寺に沿って南側に延びた水路が描かれているが、やはりその先は途切れてはいる。一方で、追分あたりで玉川上水から分水したと思しき水路が、甲州街道に向かって延びているのも確認できる。

江戸時代の甲州街道と玉川上水。向かって左側に大木戸門、手前に太宗寺。             (新宿区立新宿歴史博物館)

 北上する蟹川について、野嵜氏らは次のように書いている。

 「(前略)いくら湧水量が多いといっても玉川上水からの供給量と比べると『太宗寺の池の余水がこの水路に流れ込んでいた』と言う程度のことだったと思われる。」  (「新宿の消失河川『蟹川』に関する一考察」)

 蟹川支流の水源はいくつかあるものの、その主力はあくまでも玉川上水から供給されたもので、太宗寺の池も、高松家の池も、その水量に色をつけていたに過ぎない、ということだ。
 この見解を裏づけるのが、浜野茂の手記である。「新宿将軍」と呼ばれた米相場師の先代浜野茂が購入した土地が、太宗寺の北、靖国通り沿いにあった。つまり蟹川の下流であり、敷地には、川の水を利用した池も作られていた。

 「私の家の鴨場の三ツの池には木製の樋でひかれた玉川上水の水が流れこんでいた。」(「その頃の新宿駅附近」『新宿驛八十年の歩み』所収)

 もちろん、玉川上水から直接、浜野邸に水が引かれていたということではない。途中で太宗寺や高松家からも水を取り入れている。水路のどのあたりが「木製の樋」だったのかはわからないが、いずれにしても、浜野には、池に注ぐ水が玉川上水から引いたものという認識があったのである。

 玉川上水からも水源を得た河川のひとつに渋谷川がある。その水源は新宿御苑の玉藻池であるとされるが、池は、玉川上水からも取水していた。渋谷川に関する研究で知られる田原光泰氏は次のように書いている。

現在の新宿御苑大木戸門

 「羽村から全長約四三キロの水路を流れてきた多摩川の水は、市街地への送水のため、四谷大木戸の終点で水量調節が行われていたが、その余水が渋谷川に落とされていたのである。」 (「『春の小川』はなぜ消えたか」)

 四谷大木戸は玉川上水の終点であり、水はここから、石樋や木樋で江戸城をはじめ江戸市中に送られていた。まさに江戸の水がめだったわけだが、その一部が玉藻池にも配水されて渋谷川にも流れ込んでいたという。
 玉川上水の北側に太宗寺の池があり、南側に玉藻池があるが、それぞれ、上水からは200メートルと離れておらず、そろって、上水からの送水で水かさを増していた。つまり、蟹川と渋谷川とはお互いに合せ鏡のように向かい合う、異母兄弟のような川だということになる。

玉川上水がもたらしたもの


 先の野嵜氏らは、さらに次のような見解を示している。

 「玉川上水から水を引き込んだのは、恐らく下流地域の新田(田圃)開発と尾張徳川家下屋敷庭園の池への相当量の水供給の必要性からと思われる。」

 「下流地域の新田」というのは、東大久保一帯のことだろう。現在の新宿七丁目あたりで、もともとは砂利場御用地、つまり幕府が管理する砂利の採取場だった。その後、砂利場は開墾されて新田となったが、その時、地名を砂利場跡新田とした。
 そして、尾張徳川家下屋敷というのは、さらに下流、箱根山を擁する戸山荘である。現在は広大な戸山公園箱根山地区として、箱根山を囲むようにマンモス団地・戸山ハイツが建ち並んでいるが、かつては水戸徳川家の下屋敷である後楽園と比肩する名庭園だった。起伏の激しい地形を利用した池泉回遊式庭園で、茶屋なども配されたという。小田原宿を模したとされる「御町屋」には、本陣や鍛冶屋、米屋などの商店が数十軒立ち並び、実際に、小田原の名産品が店頭に置かれた。敷地に流れ込んだ蟹川は堰き止められ、長さ650メートルにも及ぶ巨大な池に姿を変えた。池には、琥珀橋などと名づけられた橋も架けられ、「龍門の滝」という滝まで造営されたという。
 この滝の風景について、小寺武久氏が書いている。

 「『龍門の滝』から水が轟音とともにたぎり落ち、岩角にあたってくだけ散った。急流のなかにところどころ出ている石を辛うじて渡り、向かいの岸に登った。」(「尾張藩江戸下屋敷の謎」)

 まさに想像を絶する人工楽園であり、テーマパークだったのだ。

戸山公園箱根山地区の川。かつての蟹川の流れを再現しているのか。

 つまり、野嵜氏らは、新田の開墾と、贅を尽くした庭園に必要な水量を確保するために、玉川上水から水路を引いたのだ、というのだ。戸山荘の諸施設が造営されたのは、二代目藩主徳川光友の時代とされる。具体的には、1664年から1693年までの27年間である。玉川上水からの取水もこの時代に整備されたのだろう。それから二十数年後に作られたのが、先に述べた「内藤新宿絵図」というわけである。

 「水の少なかった渋谷川は、この余水が流入するようになってから、水量が安定するようになったという。」
  (「新宿の秘境・玉川上水余水吐跡の暗渠をたどる」『はじめての暗渠散歩』所収)

 と書いているのは、暗渠の著作で知られる本田創氏であるが、蟹川支流も同じように自然の湧水に加えて玉川上水の余水を得ることで、水量を確保していたのだろう。 
 
 ただし、「内藤新宿絵図」以降、地図上で、玉川上水から引いた水路を正確に把握することは難しい。木樋や石樋が整備されて地下に潜ったか、いつの間にか枯れてしまったのか、詳細はわからない。

 大久保の「大きな窪」は、蟹川がもたらしたものである。本流と支流、そのふたつが重なり、水かさが増して、大久保が生まれた。その後、江戸時代になって、羽村取水堰を起点とする玉川上水が整備され、江戸市中への送水が開始される。その時、蟹川支流にも余水が配水された。四十数キロの旅をしてきた多摩川の水が支流に加わって大久保を流れ、田を耕し、さらに本流と出会ったその先に、戸山荘の池を造らせたのである。

 合流した蟹川はさらに北へ流れ、やがて、神田川へと注がれる。蟹川は、めぐりめぐって、玉川上水の水を神田川つまり神田上水へと運んでいたことになる。もっとも、江戸時代の水道の記録「上水記」によれば、さらに上流、今の西新宿にも分水口が作られ、助水堀を伝って神田上水へと配水されていたようだ。

 大久保の「大きな窪」を作った蟹川支流の流れは、その水源も、その先の道程にも、いくつもの出会いを重ねた、豊かなものであった。

参考文献

『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』
       東京都新宿区教育委員会 1984
『地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編』
       東京都新宿区教育委員会 1984
『新修 新宿区町名誌』新宿区立新宿歴史博物館 2010
野嵜正興 中垣創三『新宿の消失河川「蟹川」に関する一考察』
          新宿つつじの会 2017
『内藤新宿の町並とその歴史』新宿区立新宿歴史博物館 1991
『新宿300年・開館10周年記念特別展図録
 「内藤新宿‐くらしが創る歴史と文化‐」』新宿区立新宿歴史博物館 1998
川添登『東京の原風景』日本放送出版協会 1981
田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたか』之潮 2011
三田村鳶魚『江戸生活事典』青蛙房 1962
夏目漱石『道草』岩波書店 1995
平井玄『愛と憎しみの新宿』筑摩書房 2010
『豊多摩郡の内藤新宿』東京都新宿区立図書館 1968
芳賀善次郎『新宿の今昔』紀伊國屋書店 1970
小寺武久『尾張藩江戸下屋敷の謎』中央公論社 1989
本田創 髙山英男 吉村生 三土たつお『はじめての暗渠散歩』
              筑摩書房 2017
菅原健二『川跡からたどる江戸・東京案内』洋泉社 2011
『新宿驛八十年のあゆみ』日本国有鉄道新宿駅 1964

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?