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書活193日目*エネルギー切れになった時の心理、ドロドロと毒々しいです。

書き続けています。
意地ではありません。ただ朝ごはんを食べるように、歯を磨くように、お手洗いに行くようなそんな感覚に近いと思います。今は。

本を読んでいます。
今はどうしてもたくさんの文章に触れたいと思って、エッセイや小説を選びます。

本に関しての感想は、まだ書きません。
とにかく吸収したいのです。吸収した先に何があるのかわかりませんが、何かがあればいいなあという淡い期待を持っています。

仕事と家と時々職場との間を繰り返し、繰り返しそうして過ごしています。朝活をしていた頃や岐阜旅行へのワクワクも過ぎ去って今は、淡々と日々を過ごしています。

刺激を求めないと行けないのではないか?そんな感覚に、ごくたまに陥ります。どうしたら一人でお金の稼ぎ口を増やせるのか、そんなことも考えます。

考えたところで何も浮かばないし、歩き出すことも何となく億劫な気がしてなりません。

億劫とは語弊があるな。
なんというか、植物で言えば水や栄養が欲しいという感覚。

やりたいことをやる!と決めていたもののちょっとばかりエネルギーが切れました。エネルギーを補給しないといけません。

この感覚は昔からありました。

私はとある劇団に所属していました。劇団を立ち上げた時、仲間内でこじんまりとやるつもりでいました。いわゆる社会人劇団として。

ある日、劇団の座長で私より10才ほど上の男性の「憧れの人」がお芝居のイベントをするということで呼ばれて、劇団全員で出演しました。

あっという間に吸収されて、気づけば立ち上げたあの小さな劇団はなくなっていました。一緒にやっていこうと言っていた仲間たちは、一人やめ二人やめ、最後は私ともう一人の女優だけが残っていました。

私のスタンスは、変わらず社会人をしながらお芝居をしていたいでした。新たな仲間たちは気の合う愉快な人たちです。

サバサバした感じも心地よくて、出演するしないと自由にさせてもらいました。

舞台に出演した後は、心が枯渇しました。
その時の私はそれを「虚無感」と表現しました。誰にも会いたくなくて、何もしたくなくて、ただ生命維持行為をしているだけで精一杯。

もちろん生きるためには、仕事にも行っていたので、職場と家の往復で十分。家が本当に大好きで一生このままここにいたいと願ってました。

時間と共に、やがて心持ちがアクティブになってくると町に出たり、人に会ったり、好きなお芝居や映画を見に出かけられるようになります。

これはお芝居をしていたからではなくて、いまだにこんな症状に悩まされます。大きな刺激を受けたあとには引きこもります。

その状態がいいのか悪いのか、不安でした。むしろ欠陥品のように思えて仕方がありません。

今もアクティブに動いている人々のSNSを眺めては、唇を噛み締めるほどに羨ましく感じます。それなのに、早春の頃までにあった「やる気」に似たものが出てきません。

出かけなきゃ、刺激を受けなくちゃ。そんなふうに焦りだけが溜まる一方。

急がば回れ、それを唱えて何とか自分を保ってるけれど元気な人が羨ましい。眩しい。

ため息を一つ。
私のように時々、電池が切れたり、エネルギー不足を感じる方ってどのくらいいるのでしょうか?

その時って何をしていますか。
私はひどく落ち込む時があります。その時に夜空を見ては浸ります。浸りまくります。

すぐには解決なんてしません。
もう身を任せてご飯を食べて眠ります。人とは最低限の方としか会いませんし、ボーッと過ごします。

それでいいんだ、そう思うのはまた少し元気になってから自分自身に言ってあげるだけです。

身を任せてるのでね、嫉妬もむき出し、落ち込みも頭が床につくくらいに落ちますし、溶けます。そうやって過ごしてきて四十数年、生きてます。

バンザイ、えらい、花丸。
この言葉さえも棘がある。

うるせーって毒づきます。ポジティブが眩しい、ネガティヴはたまらなく嫌、自己肯定感クソくらえ!!

時には自分の中で毒々しい言葉、吐いてみてもいいかは、しらねーーー!!!すみません、今絶不調に絶好調にエネルギーが切れてます。

どうかどうかお許しください。
けど、きっとこういう日もあっていいのだと元気になったら認めてあげたいと思います。こんな自分も愛おしい、そう言うつもりです。

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