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短編小説『鯖の煮付けと独り酒』

娘のカンナは、お友達と食事をして帰るので今日は遅くなるとメールが入っていた。

だから今夜は、一人きりで過ごさなければならない。

病院で、単身赴任をしている裕司の病状を聞いてから、今こうやって普通に生活していることが現実じゃないような気がしている。

悪い夢をずっと見ているような気がする。早く目が覚めて、すべてが夢の中だったと思いたい。
お医者さんの言葉が頭の中をずっとサティのジムノペティの音楽と一緒に文字となって、エンドレスで回り続けている。

ソファに座ったまま何もする気が起こらない。身体を動かしている燃料のようなものが切れちゃったみたい。

窓の外の光が段々と弱くなってきた。

こんな日の夕暮れは悲しすぎる。

家にいるのが堪らなくなった。思わず外に出た。

近所を散歩しようと思ったけれど、紫色を段々と濃くしている空の色を見ると悲しすぎる。

結局普段の買い物をしているスーパーマーケットに逃げるようにして入った。

そこには、日常だけがあって、新しく研ぎ澄まされた刃のような現実から逃れることが出来る。

良く効いた冷房の店内に入って、いつもと変わらない品ぞろえを見ていると少し落ち着いた。

今夜は何を作ろうかなと思っていると、

「貴島さん、お久しぶり」

声を掛けられた。

カンナの同級生の吉田さんのお母様だった。今にもジョギングをしそうなスポーティーな格好をしているので最初は分からなかった。
吉田さんのお母様は手ぶらで、その後ろにショッピングカートのハンドルを両手でしっかりとハンドルを握っている旦那さんがきまり悪そうに控えていた。

吉田さんのお母様と暫く立ち話をした。吉田さんは一方的に東京で単身赴任していた旦那が、リタイヤして戻ってきているけど、家で何もしないでぶらぶらして困っている。

仕方ないので買い物につき合わせていることなどを困っているはずなのに嬉しそうに話した。

その間ずっと、旦那さんは従僕のように控えていた。

白髪で、恰幅の良い体型には、さぞかし仕立ての良い高級なスーツは似合っていたと想像はつくが、今着ている腹回りが目立つボーダー柄のポロシャツとだぶだぶのジーンズはあまりにも似合っていない。

裕司もリタイヤしたらこんな風になるのかなとおもった。

でも、うらやましいなとも思った。

裕司とそうやってスーパーマーケットで一緒に買い物をしたことがなかった。

ずっと一緒に居られたらいいなと思った。

なんでそんなことを思うのだろう。

きっと、それがかなわない運命だからそう思うのかもしれない。

また、サティのジムノペティが頭の中で回りだした。

急に裕司に会いたくなった。

裕司に会いたい。

今すぐに新幹線に乗って大阪に行きたい。何もかも投げ出して、裕司に会いたい。顔を見たい。そう思うと、自然に涙が出てきた。

思いっきり、声を上げて泣きたい。

泣きたい。泣きたい。泣きたい。

「裕司。裕司。裕司」

それにしても、なんで店内は冷房が効きすぎているの。

私は、夏なのに薄氷の張った湖の上を歩いているような気がした。

そう今夜は裕司のために食事を作ろう。裕司はいないけれども、裕司の分まで夕食を作って、一人きりで食事をしよう。

何がいいかしら。

そうだ魚料理を作ってあげよう。

裕司の好きな鯖の煮付けを作ってあげよう。

単身赴任で大阪に行っている夫の裕司の分まで夕食を作った。

テーブルに差し向かいでそれを並べた。

この時期、裕司がいつも飲んでいる冷酒も買ってきて並べた。

いつもの食卓、いつもの食器。

裕司の大好きなさばの煮付け。

でも、本人だけがいない。

サティのジムノペティがずっと頭の中で流れ続けている。

ずっと裕司のことを考えている。

病院で言われたこと。ガンかもしれないこと。手術もできない場所にあること。

ジムノペティの旋律に合わせて、繰り返し頭の中でまわって行く。

冷酒を二つのグラスに入れて乾杯した。

グラスを合わせると、チンと高い音がむなしく響いた。

一口飲む。芳醇な口当たりが、冷たい舌触りに、寂しさ、虚しさという味に変えて、喉を通り抜ける。

食事には一切手を付けず、悲しさ、虚しさを確かにするために、杯を重ねる。

サティのジムノペティがずっと流れている。

壊れたレコードのように、同じ旋律を繰り返し流れている。

「裕司、私どうしたらいいの」

何度も心の中で叫ぶ。

「裕司に会いたい。そばにいて欲しい。声が聴きたい」

携帯電話を掛ける。

裕司は出ない。

いつも、どんなことがあっても、すぐに出る裕司が今日に限って出ない。

何かあったのだろうか。

いつもならもっと心配するのだが、冷酒の体の芯から来る酔いが私を寛容にさせている。

今、裕司が出たら、崩れ落ちてしまう。裕司の声を聴くと、耐えきれなくなる。

「どうした?」低くぶっきらぼうだが、それが返って素朴な愛情を感じさせる裕司の声を聴くと私は、支えきれなくなる。

良かった。

裕司が電話に出てくれなくて、良かった。

冷酒の冷たい喉越しが、熱い涙となって目から零れ落ちる。

さっき出会った定年退職して家でぶらぶらしている松村さんの旦那さんみたいに、少々ダサくなってもいい。

付きまとわれて、多少鬱陶しくてもいい。

そばにいて欲しい。

すっと一緒に暮らしたい。ずっとそばにいて欲しい。

泣きたい。

思いっきり声を上げて泣きたい。裕司の胸の中で泣きたい。

「裕司、わたし泣きたいの」

緩やかに酔いが回ってくるほどに、頭が冴えてくる。

頭がさえてくるほどに、想いは募ってくる。

「裕司に会いたい。裕司にそばにいて欲しい」

サティのジムノペティがずっと、同じ言葉を繰り返す。

気が付くと夜中の2時を回っていた。テーブルに突っ伏したまま寝てしまったようだ。

携帯電話を見ると、裕司からの着信履歴があった。

つづく

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