短編小説『悪魔の紋章に変わる時』
「手術したら、治るのですか?」
「手術?」
若い医者は、少し顎を上げて目の前の何もない空間を見つめた。
裕司も良く考え込むときに、同じようなしぐさをする。
徐に、びっしり細かい文字が書き込まれている紙が、きっちりと閉じられているバインダーを捲りだした。
裏面が白紙になっている紙を探しているらしく、それは中々見つからなかった。
やっと見つけると、一番前に閉じ直した。
そしてその紙に、三色ボールペンを使って、熱心に絵を描きだした。
裕司も、ペンの持ち方は悪いけど、この若い医者に比べたらまだまし。
棟方志功が彫刻しているように、紙と顔が引っ付くほど、近づけて熱心に何やら書いている。
こちらから見られないが、さぞかし立派な作品が出来る期待した。
何回も見直しが終わってやっと見せてくれた。
見た途端、あっけに取られた。
幼稚園の頃のカンナでも、こんな下手な絵を書かない。
そこには、タコのお化けか、火星人か分からないお化けが、ラグビーボールのような楕円形の青色の塊を抱えている図と、その隣に巻きずしを横から切った図が並んでいた。
深刻な場面で、心痛な思いをしていた時に、そのユーモラスな絵が心を和ませてくれた。
若い医者が熱心に絵を書いていた姿と、このユーモラスな絵の対比があまりにも差があり過ぎた。
思わず、嬉しくなって、幼稚園の頃のカンナをあやすように、「坊や、良く描けたわね」と、出そうになった。
思わず微笑んで、若い医者を見た。
驚いた。
彼は、唇をかみしめ、目にはうっすらと涙を浮かべて、何かを必死に耐えていた。
「手術は・・・。手術は・・・」
長い沈黙が続いた。
若い医者は、遠くを見つめた。
彼は、何かを必死に思いだそうとしているようだった。
今、裕司は何をしているのだろう。
この場に裕司がいてくれたなら、目配せして「面白い絵ね」って微笑み合えたのに。
裕司がいてくれたらと思う。
「この青い部分が、腫瘍です。これが横から見たところの図なのですが上の部分が膵臓です。そこから管が出ているのが胆管です。それが肝臓に繋がっています。これは、簡単に書きましたが、実際には、他の胃などの臓器がすぐ横に詰まっています。これが、断面図です。上から見たところなのですが丁度、おへその辺りを輪切りにした状態を書いた図です。この真ん中の部分が脊髄、背骨ですね。この前の部分が胃です。この同じ形をした二つが肝臓です。図では書いてないのですが、その上の部分に膵臓があって、そこから伸びているのが、胆管です。この小さな丸ですね。この青い部分が腫瘍です。こう見ると腫瘍がかなり大きいものであるとお分かりになると思いますが。正直に申しまして、この二つの丸、両方の肝臓に繋がっている胆管に腫瘍がまたがっている状態です。通常の外科手術であれば、この部分を切り取ってしまうのですが、ご覧の通り腫瘍が、胆管に引っ付いた状態になっています。腫瘍の組織が、胆管に移行していた場合、たとえ移行していない場合でも、このように引っ付いた状態ですので、完全な除去は難しい状況です」
今まで、ユーモラスに見えていた若い医者の絵が、一転して恐ろしい絵に変わった。
火星人のようなタコのお化けが、しゃれこうべに変わった。海苔巻きが、悪魔の紋章に変わった。
血の気が引いてくるのが、良くわかる。
このまま倒れてしまいそうだ。
もう止めて頂戴、許しを請うように若い医者を見た。
先程まで、飄々としていた若い医者の姿はそこにはいなかった。
取り返しのつかない罪を犯した者が懺悔するように、若い医者は目を固く縛り必死に耐えていた。
その三色ボールペンを持った指が小刻みに震えていた。