見出し画像

短編小説『落日の憂鬱』

久々 に浴衣を着て、角帯を締めた自分の姿を鏡で見る。

我ながら年を取ったなと思う。

スーツを着ていれば、多少ごまかしは聞くが、和装になるとごまかしはきかない。

鏡に映る自分の姿は、明らかに初老のおじさんの姿である。

いつもなら、それは仕方がない事だと諦めるが、今日会う相手は香田美月だ。

さすがに娘と同じ年頃の若い女性に会うとなると、気後れがする。

白髪が混じったボリュームのない髪。

張りのないシミだらけの顔。

勢いを失った首筋。

どれもが、後悔する。

取り返しのつかないところまで来てしまったと悔やむ。

鏡を見て今日ほど、若さに嫉妬したことはなかった。

私は、若さの前にひれ伏してしまう。

かつて通った道をもう一度、戻ることはできないものかと思った。

しかし、外見とは、裏腹に心の中は、あの時のままなのだ。

若い時のように心が時めくのである。

私の心はくたびれた外見とは裏腹に、昔を取り戻し再び動き出した。

目的のない旅に出るように、

立ちはだかる得体のしれない怪物に素手で立ち向かうように、

報酬のない価値を見出すように、

鼓動を始めた。

封印は解かれた。

闇雲に駈け出したくなる。

心はあの時のままだ。

もう一度鏡を見る。

今の自分がいる。

そこに現実がある。

やはり幻想だったのだ。

起き抜けの夢のように、それははかなく消え去ってしまった。

私は、失ってしまったのだ。

私は、落ちぶれた映画俳優のように、過去にしか生きられなくなっているのだ。

あれ程、待ち焦がれた香田美月との待ち合わせなのに。

審判を待つ罪人のように心は揺れる。

今更ながら自分の行いを後悔する。

鏡の前の自分が現実なのだ。

私が認識している私はもういない。

過去でしか存在していないのだ。

私の中にいるもう一人の自分が、冷たい薄ら笑いを浮かべながら私を見ている。

私はどこに行ってしまったのだ。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,563件

サポート宜しくお願いします。