短編小説『宝石屋さんの不思議な古時計』
「キクちゃん、早よ寝なさい」
お母さんは、そう言うと階段をきしませて降りていかはりました。
一階の帳場では、電卓のパチパチする音や紙の擦れる音やら、トントンと机をたたく音が、微かに聴こえてきます。
お父さん、お母さん、いつ寝はるのやろ。私が起きた時には、もう働いてはって、寝る時もまだ働いてはります。
大人になったら寝んでもいいのやろうか。いつも考えます。
考えたら寝れへんようになってしまいます。
今夜も、なかなか眠れません。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・
寝ようとするのに時計の音が気になって、眠れません。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・
いつの間にか時計の針の音が、頭の奧から聞こえてきます。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・
まだ、おじいちゃんが生きてはった頃、偉い人からもらわはった時計なんやそうです。お父さんから聞きました。
私の生まれるずっと前からあるそうです。私の背丈より大きい古時計です。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・
お母さんに教わったとおりに、寝れへんときは、羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、数えていきます。数えていったら、いつの間にか寝てしまうんやそうです。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹、羊が五匹、羊が六匹、羊が七匹・・・・
あれ、何匹数えたんやろ。
いつの間にか、カチ、カチ、カチの時計の音が消えています。
おかしいなあ、なんで聞こえへんようになったのやろ。
時計の方を見たら、ガラスの扉が開いていて、中から羊が一匹、二匹、三匹と出てきます。何匹も、何匹も出てきます。一列になって、足並みを合わせて、行進しています。何匹も、何匹も出てくるのです。それでも、足並みを合わせてゆっくりと行進しています。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹、羊が五匹、羊が六匹・・・・
何匹も出てきて、行進して行きます。何匹も、何匹も次から次と出てきます。
しばらくすると部屋中が羊だらけになってしまいました。
私の寝ている周りをぐるぐる回っていきます。
私には、一つも触れずにまわっています。しまいには頭の中にも、羊が入って来て、ぐるぐると回り出しました。羊が、羊が、羊が・・・・・・
頭の中も羊で一杯になってしまいました。
「キクちゃん、早よ起きなさい」
お母さんの声で、目が覚めました。
あれだけ一杯いた羊が、いつの間にか消えてしまっています。頭の中にいた羊も、何処かに行ってしまいました。
おかしいなあ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・・
時計の音が、聞こえてきます。
起き上がって羊の出てきたガラスの扉を開けようとしますが、びくともしません。おかしいなあ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・・
時計の音は近くで聞くと、大きく聞こえます。
お父さんや、お母さん、おばあさんに、その話を言うと、それは夢やと言わはります。
私は、絶対に夢ではないと思います。
何回も、何回も、同じ夢なんか見るわけがないと思います。
ほんまに、時計の中から羊が沢山出てくるのです。
大人は何も、分かってないのやと思います。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・・
50前と古時計の音は何も変わっていません
コロナ禍が過ぎ去った今、すっかり人通りの少なくなった商店街で、宝石店に入ってくる人などおりません。
こんなに暇になったら、店員さんもいらないので帰ってもらって、私一人です。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・・
天王寺の実家の私の部屋にあった時計は、30年前店を改装した時に、ここに持って来ました。
明治43年に創業した会社の象徴として、この時計を飾るようにしました。
その時は、まだ父も元気でした。
その時から、ずっとお店の正面に、この時計を置いています。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・・
色々ありました。すごく景気が良かったり、急に悪くなったり。信頼している人に裏切られたり、思いもかけない人に助けられたりしたり。
いつも、この時計だけは、正確に時を刻んでいます。
幼い私の子守歌になってくれたり、浮かれている自分に釘を刺すように鋭く突き刺さったり、沈んでいる時に優しく包み込むように語りかけます。
ずっとこの時計に見守られてきたような気がします。
「この先、どうなるのだろう」
すごく心配です。心配で、心配で、どうしようもありません。このままの売り上げが続いたら、会社はやっていけません。創業110年続いた会社を寄りによって、私の代で終わらせることになったら・・・。
考えるだけで、ぞっとします。一体どうしたら、良いのでしょう。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・・
時計の音が、静かになった店内に響き渡ります。
その答えが、時計のガラスの扉を開いた中にあるような気がしました。
子供の頃、羊が出てきたあの扉です。
私は、近くに行ってその扉を開けようとしました。
開かない。
子供の力だったので開かないだけだと思い。力任せに開けようとしました。
でも、開かない。
その答えが、中に入っているはずなのに、どうして開かないの。
私は、どうしていいか分からないから、知りたいのに、どうして開けることが出来ないの。
情けなくて、悔しくて、涙が溢れて出てきます。こらえきれないほど、涙がこぼれてきます。
頬を伝って流れた涙のしずくが、床に落ちて小さく跳ねました。
「きれい」
今まで見てきた中で、どんな高価な宝石よりも、床に落ちた私の涙のしずくは、美しかった。
一瞬で形を失ってしまうその涙のしずくは、清らかで貴くて、そして美しい。
私は、その答えをもらったような気がしました。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ・・・・・・
時計の音は近くで聞くと、大きく聞こえます。
サポート宜しくお願いします。