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月夜に吠える狼(『 龍馬が月夜に跳んだ』より )


あたりが薄墨を塗り重ねるように暗くなってくる。色の境がくっきりとしてきた。黒はより深みを増し、灰色には微かに金色が混ざるようになってきた。

月の光だ。月が出ているのだ。

漆黒は悪事を包み隠してくれる。しかし、冷たい月の光はそれを許してくれない。

「遅くなってすまん。山崎烝さんからの差し入れだ」

齊藤一は、柄と鞘を握った手を離さないで、緊張感を途切れさせないように、大石隊5人の各々の懐におにぎりを直接ねじり込んで行く。

隊形の後列の二人から配って、最後に前列の三人の左端にいる越前小僧と呼ばれる新隊士の懐に入れた。

そして、励ましのつもりで肩を二度叩いた。彼は、前方の土佐藩家老福岡邸から目を離さず。二度首を縦に振った。「ありがとうございます」と言ったのだろう。音を発しない口が、二度三度動いた。

この新入りの隊士は廣瀬という。この恐怖で震えている隊士が土方とともに転戦し、函館まで渡って、生き延びた。土方の最後を看取り、苦労を重ねて遺品を故郷の日野に届けた。

暫く日野で世話になり、故郷の越前に帰るが、自分の墓が立ててあり逆賊との汚名を着せられていたので、家に入れてもらえなかった。仕方なく福井の山奥の小さな村で身分を隠して暮らして一生を終えた。

この三十年後に、廣瀬が入隊時にいた西本願寺で、この斎藤と再会するとは、互いに夢にも思わなかっただろう。

大石鍬次郎は、振り返って後列の二人に目で合図を送って、右手に捧げていた手槍を右側の者に渡してから、懐から竹皮に包まれたおにぎりをゆっくりと口に運ぶ。前を向いたまま、視線は監視している土佐藩家老福岡邸から離さない。左手は刀をしっかり握り、親指は何時でも刀を抜けるように反り返って鍔に掛かっている。

少しずつ何回にも分けて口に入れて、時間をかけて食べる。食べ終わると、右側の者から手槍を受け取り、後ろ二人を振り向いて目で合図を送る。

お互いに背中合わせになっているが、訓練を積み重ねているので振り向いただけで、相手の呼吸を読み取ることが出来る。

今度は後列の一人が、横の者に目で合図を送り順番に食べてゆく。その間、斎藤は前列の脇に控えながら、監視している。

「屯所に確認してきた。中岡慎太郎の件、御陵衛士も協力するようにとの要請だ」

「そちらは、何人?」

「わしと、藤堂平助と服部武雄の三人だ」

「見事な看板役者ぞろいだな。それなら、相手が三人連れでも大丈夫だ。でも、この大通り(河原町通り)では、無理だ。どうする?」

「そうだな、帰り道の高瀬川沿いで待ち伏せしかないな」

「我々は、三条大橋のたもとの控え所に戻る。あそこなら、一晩中出入りを見張ることが出来る。中岡らは、一刻も早くこの界隈から逃れたいと思っているはずだから、必ず三条大橋を渡って帰ろうとするはず。齊藤さんたちは、この通りの先の菊屋で出てくるのを見張っていて、出てくれば追ってきてくれ。挟み撃ちにする」

「分かった。菊屋に戻る」

丁度、前列右端の者が食べ終わり廣瀬に目で合図を送って、震える手で懐からおにぎりを出して、不器用な手つきで竹皮をむいているところだった。

それが、口に運ばれるのを確認してから、斎藤は河原町通りに出た。いつものように大手を振って歩くと怪しまれる。懐に両手を差し込み、屋敷を抜け出して遊郭にしけこもうとしている藩士を装った。

さりげなく福岡邸の前を通り過ぎた。門は固く締められて、明かりはなく人気がない。

怪しい。人気がないのを無理して装っているように思える。齊藤は、前方に長く伸びている影を見た。振り返った。

低く月が出ている。しかも、見事な満月だ。これなら明るくて目立ってしまうから、当分は出てこられないだろう。

視線を落とすと大石らがいた。首を横に振って、「出てこられないだろう」と合図を送った。

二、三軒やり過ごして、近江屋の前に出た。暖簾は仕舞われ、開き戸は閉まっているが、その隙間から明かりが漏れている。夜になっても、まだ作業はしているのだろう。勝手口は開け放たれ、頻繁に職人らが出入りしている様子。

この中に、坂本龍馬が潜んでいるのか。確かに、このような屋敷は、襲撃がしにくい。よく考えたものだと思う。

その前を通り過ごした。ものの三間も行かない時、後ろで物音がした。

土佐藩家老福岡邸の門の辺りから、動くものが出てきた。月の光が逆光になって良く見えない。通りの端を大きな溝鼠のようなものが、こちらに向かって来る。

「齊藤さん、援護」

大石の鋭く突き刺さるような声が響いた。同時に大石隊が通り一杯に広がった。

齊藤には、大石の意図が伝わった。

「追い斬りは出来ない」

新選組では、この言葉を徹底的に頭に叩き込まれ、実戦でそれを通感する。

「敵に背を向けるな」というのは間違いで、正しくは「敵に背を向かすな」である。

どれほどの達人でも、相手に背を向けられて逃げられると、追いかけて斬りつけることが出来ない。相手の逃げ足がどんなに遅くても、同じである。

相手を追いかけて斬るには、どうしても足を止めて腰を落さないといけない。その隙に逃げられるのである。

こちらに向かって来る者らを相手にするのではなく、足止めさせればよい。足を止めさえすれば、大石らが仕留めてくれる。

「こなくそ」

通りの真ん中に出て、拳を握り締め両手を一杯に広げて、思いっきり叫んだ。

この「こなくそ」というのは、元々は原田左之助が相手を威嚇する時の言葉であったが、効き目があるということで、今では新選組のほとんどがこれを使う。

原田曰く、伊予松山で使っていた「こなくそ」言う言葉は、土佐、長州、薩摩でも大体意味が通じるらしく、これを相手が使われるとそのあたりの藩とは互いに親密なだけに、後々面倒なことになるので、迂闊に刀を抜けないそうである。

やはり効果があった。ぴたりと足を止めた。通りに月の光を背にした三人の影が現れた。

「土佐の中岡じゃ。追われている、通してくれ」

びっくりした。狙っている中岡が、こんなにも早く、しかも自分から名乗り出たのだ。しかも同郷のものと勘違いして助けを求められている。

「目標発見、中岡慎太郎だ」

齊藤は、大声で大石に伝えた。

斉藤なら、相手が三人でも足を止めることが出来る。大石は、咄嗟に判断した。

「抜刀」

大石は、号令をかけた。

月の光を受けて、抜かれた刀身が、銀色に輝く四つの弧を描く流れ星と一本の稲妻のように輝いた。

その刀身には、獲物を前にして舌なめずりする狼のように、不敵な笑みを浮かべる大石の横顔が映し出されていた。

                      

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