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ただいま,お父さん(『天国へ届け、この歌を』より)

ずっとオトーサンとこうやって一緒に歩いていたかった。

幻想を打ち消すように古い町並みがとだえてきて、現実の世界が近づいてくる。

ワタシの住むマンションも見えてきた。

あたりに漂っていたセピア色の光も、まぶしいくらいの人工的な光に変わってきた。

ふと、オトーサンという存在があれば、もう過去は振り返らなくてもいいのかなと思った。

ワタシはもう後ろを振り向かない。前を向いて生きてゆこう。

気がつくとワタシが住むマンションの前に来ていた。

「こちらです」

セピア色の世界で見たオトーサンは、お父さんのおもかげを残した大人。今見るオトーサンは、少しはにかんだ少年みたい。

なぜだか、またヤマギシ君のことを思い出した。

オートロックを開けようとすると、ときどき出会う女のひとが出てゆくところだった。

いつもはあいさつをかわすのだけど、今日は見て見ぬふり。

その代わりにオトーサンの方をまるで品定めするような目つきで見た。

ワタシは、その時初めてオトーサンがおとこであることに気が付いた。

オトーサンはおとこ。オトーサンが、急に遠くに行ってしまったような気がした。

そして、さっきすれ違った女のひとに嫉妬を感じた。

彼女に負けてる。そう思った。

「5階です」

エレベーターに乗るときに、オトーサンはさりげなく左手に持ったスヌーピーのエコバッグを持ってくれた。

左手が自由になった。

また、オトーサンと手をつないでみたくなった。

さっきの女のにおい。

エレベーターの中でも、さっきの女のひとは、存在感をまき散らしている。どこまでしつこいのだろう。

意外にもオトーサンは、むせかえっている。

「大丈夫ですか?」

オトーサン、このにおい嫌いなんだ。そう感じた。

良かった。

さっきの女のひとに少しは勝つことができたような気がした。

ワタシは、自由になった左手で、大げさに鼻を押さえた。

オトーサンを見ると、涙目になったオトーサンが救いを求めているような目をしている。

あっ。それは、ステージで歌えなくなったヤマギシ君が助けを求めている目と同じ。

またこの目と出会えた。私を必要としてくれている人がいる。

ワタシのからだは自然に、オトーサンに引き寄せられていった。

二の腕どうしが当たった。

ジャケット越しのオトーサンの二の腕に、躍動する筋肉を感じた。引き締まった筋肉質の体を感じた。

オトーサンもやっぱりオトコだったんだ。

エレベーターの扉が開いた。

やっと、あの女のひとの匂いから抜け出すことができた。

「帰ってきた」。

それぞれの玄関ドアに取り付けられた照明が、厳かなキャンドルのように並んでいて、ワタシたちを祝福してくれているように感じた。

「男の人も住んでいるの?」

「いらっしゃいますよ。でも、女の人の方が多いかも知れません」

気にしてくれているんだ。

その先何を聞きたいのかも、だいたいわかる。

オトーサンはオトコだけれど、それ以上の存在。

オトコとオンナを分けるとおとこの方に入るけど、それを超えた存在。

それって「お父さん?」。

良くわからないけれどそんな感じなのかな。

ながい旅から、戻ってきたような気がした。

「お父さん、ただいま」

声には出さないけれど、いつもそんな気持ちでインターフォンを押す。

「ピンポーン」。

インターフォンの音が、いつもより軽やかにひびいた。

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