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短編小説『木蓮の香り』

「貴島さん、分りますか?ここのところに黒い影が映っているでしょう。こちらが、4月結果の分です。比べて見ると、大きくなっているのが分かりますでしょう」

「その黒い影は、癌ですか?」

「貴島さん、今は先日受診されたご主人のMRIの検査報告をしているのです。この段階では、癌と判断することは出来ません。ただ、お分かりのように膵臓に黒い影が見受けられるということだけです。そしてそれが、急速に肥大をしているということだけです」

裕司の体の中に、黒い塊が出来ている。

それが3か月余りで急速に倍の大きさになっているとのに、この若い医者はお昼のバラエティ番組のとぼけたコメンテイターのように飄々と答えている。

たとえそれが、癌ではなくても裕司の体の中に黒い塊が出来ていて、それが膨らんでいる。

大変なことが起こっている。

恐ろしいことが起きようとしている。

しかも、裕司は何も知らずに、大阪で単身赴任をしている。

「仮にそれが癌ではなくても、体に悪いことでしょう?早くなんとかしてくださいよ」

思わず声を荒げてしまった。

何、この若造、人の気持ちも知らないで。私は思わず、睨め付けてしまった。

大阪で人間ドックを受けた裕司は、膵臓に影があるというので、名古屋に帰ってきた時に、精密検査を受けた。

一か月後に検査報告をしますと言っていたのに、一週間もしないうちに病院から連絡があって、すぐに来るように言われた。

裕司も一緒に来るように言われたけれど、その週は帰ってくる週ではなかったので、私だけでもいいかと尋ねると、それでもいい、とりあえずすぐ来るようにと言われてきた結果が、この応対なのだ。

私の威勢に押されたのか、若い医者は、おどおどしながら、

「癌であるかの判断は、細胞を採取して、その内容を調べて見ないと分かりません。その為の検査入院が必要になります。何時になさいますか?少し、お待ちいただけますか。スケジュールを確認します」

「そんなに進行が早いのなら、すぐにでもして下さい」

「申し訳ないですが、混み合っておりましてお盆明けの8月20日の月曜日か23日の木曜日になりますが」

どうして?急がないとだめと言いながらも一か月も待たないとだめなの?

その間に増々黒い塊が多くなって行くというのに。もしものことがあったらどうするの?もしもの事?考えるだけでもぞっとする。

でも、もしもの事。思いたくない考えたくない。裕司がいなくなるなんて想像もしたくない。

携帯電話が鳴った。

こんな時にと思ったが、よく見ると、裕司からだった。

何でこんな時に。

あの人、普段はぼうっとしている癖に、変なところで勘が効く。

感づかれたのかな?

どうしよう。迷った。

でも、ここ出なかったら、後悔すると思った。

出ようっとした瞬間に切れた。

何だろうと、思う暇もなしにメールが来た。

「スターダストレビューのコンサートがあるけど行く?」

ほっとした。

何も知らないのに、優しさを見せる裕司がいじらしくて、思わず涙が出てしまった。

診察室で医者の説明を受けているのにもかかわらず、思わず携帯電話をかけた。

裕司の声だ。

涙が溢れて、頬を伝った。

息が詰まって、声が出ない。

「あなた、今大変なことになっているのよ。身体の中に出来た黒い塊がどんどん大きくなってきているのよ」

そんな時に、私の好きなスタートレビューなんて、タイミングが良すぎる。

私の荒れ狂う心の中に、彼の優しさの塊が直接投げ込まれた。

彼は、昔からそうだった。

付き合いだした頃から、そうだった。

普段から、無口でぶっきらぼうの癖に、思いがけない時に優しさの塊を私の心の中に、直球で投げ込んでくる。

そこに惹かれた。

裕司の好きなところ。

でも、今はそれを気付かれないようにしよう。

快活を装った。

良かった、コンサートは、検査がある週の前の週だった。

「分かった。日帰りになるけど行くわ」

裕司とのやり取りを、無関心を装いながらパソコンに映る裕司の画像を熱心に見つめる若い医者の横顔が目に入った。

付き合いだした頃は、これくらいの若さだったなと思った。

そういえば耳の形が裕司とよく似ている。

何処かしら木蓮の花の香りが漂ってきたように感じた。

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