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救急車を呼べ! (『夕暮れ前のメヌエット』より)

「よっしゃ、ナイスショット。やっと調子が出てきたで」

若社長は、 すたすたと自分だけ先に歩き出した。

「このお調子者が」と、田中の方へ見たが、田中は正面を向いたまま視線を合わさない。

前を歩く若社長が、二人が何事かささやくのを察して振り返るから注意しろと言う意味なのかも、知れない。

それにしても、田中の横顔は、年老いた巡礼者のように、疲れをしわに刻み、思いつめ耐え忍んでいるように映った。

案の定、若社長が振り返って、こちらを見た。

その顔には、先程までの傲慢な二代目社長の面影はなかった。

そこには、何処にでもいる三十代前半のうだつの上がらない青年の顔であった。

精一杯、虚勢を張っているのだなと思うと、少し悲しい気がした。

結局、そのホールは、若社長がティーショットの調子の良いままに、最初にグリーンへ乗せ、田中は堅実にまとめて、一打差で乗せた。

私は、最後に気が緩んだのか、7打かかってやっとグリーンに乗せた。

若社長の顔は、元の不遜な表情に戻っている。

一方、田中はティーショットの時と変わらず、何かを思いつめた顔のままで、視線を合わそうとしない。

若社長はロングパットを決め、得意満面でスコアシートに書き込んでいる。

次に打つ田中は、それほど長くない距離のパットを大きく外した。

それをマークしようと屈みこんで、ボールを持って、立ち上がった。

田中は血の気の引いた蒼白の顔をしている。

人差し指と親指挟まったボールはすとんと落ちて、グリーンに転がった。

田中はボールが落ちたのも、気付かないのか、ボールを持った指の形のままに立ちすくんでいる。

「田中さん」

呼びかけても、聞こえないのか反応がない。

もう一度、呼びかけようとした瞬間、田中はお腹を押さえて、九の字になって、膝から崩れ落ちた。

急いで駆け寄ると、田中は、顔をしかめたままマネキン人形のように体を硬直したまま倒れている。

顔はまさしく蝋で出来たように真っ白である。

動かしていいものか、そのままじっとした方が良いのかわからない。

兎に角、固く握られた蝋人形のような手首を握って脈があるか見た。

脈がない。

慌てて、仰向けにして、胸に耳を当てた。

真っ黒な沈黙が通り抜けてゆく。

動いていない。

顔を上げると、状況を把握できていないのか、若社長が間の抜けた顔でこちらを見ている。

「救急車をお願いします」

「知り合いにいい医者がいるので、連絡しますよ」

携帯電話を取り出して、電話を掛けようとした。

「馬鹿野郎、救急車を呼べ、AEDも持ってこい。早くしろ、走れ」

私は、思わず叫んだ。

           つづく

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