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オトーサンと呼ばせてください

向かい側に座っている貴島支社長を見ていると、亡くなったお父さんを思い出す。

生きていれば、ちょうど支社長くらい。だから私は、心の中で支社長のことを「オトーサン」と呼んでいる。

でも、呼ばれている本人は、私のことを知らない。

今日、初めて会社で会話を交わした。

今こうやって地下鉄の同じ車両の向かい側の席に座っているのにオトーサンは気が付かない。

何時もの様に、老眼鏡をかけて文庫本を、気難しい顔で本を読んでいる。

今、顔を上げた。目が合った。

今日は、気付いてくれる。


いつもの様に視線は私の体を通り抜けた。

今日、会って会話までしたのに、気付いてくれない。

いつもの様に、オトーサンの視線は、私の体を通り抜ける。
 

でも、本当は、ほっとした。

それで良かった。

なぜなら、オトーサンの本から、顔を上げた時の、その表情が好きだからだ。

いつものように、その顔を見ることが出来る。特に、その目が好きだ。

古い洋画にあるような天使がキリストを見上げているような敬虔な表情。

眼鏡の奥の目は、何の曇りもなく澄み切って、一点を見つめている。

少年そのものの顔。純粋な目。

そしていつもの様に、目を閉じて大きなため息を吐く。

少年からオトーサンに戻って気難しい顔で、また本を読み始める。

私は、週3回、月水金に淀屋橋の6時10分に、ホームでオトーサンを待っている。

2年前からずっとそうしている。

地下鉄の中でみんなが携帯電話を熱心にのぞき込んでいる中に、一人だけ本を熱心に読んでいるおじさんがいた。

さっきのように、おじさんがふと顔を上げた。

どこかで見た顔だった。

新しく来た支社長だった。

思わず軽く会釈をした。気が付かない。

支社長の視線は、私の顔を通り過ぎた。

支社長の眼差しは私を通り過ぎて、遠くへ放たれた。

失った何かを必死に思い出そうとする目。

そうだ、お父さんも同じ目をしていた。

お父さんと同じ。

失ったものを思い出そうとする目。

私は、お父さんのあの眼差しに再び出会った。

自然に涙がこぼれてきた。

懐かしくて、懐かしくて、今にも、「お父さん、お父さん」と叫びだしたくなった。

目の前で涙を流している私を通り越したまま、眼差しは遠くを見ている。

ずっと、このまま私の方に目を向けていて欲しいとの願いも空しく、お父さんの目は、再び文庫本に向けられた。支社長の目に戻った。

気難しいいつもの貴島支社長の顔に戻った。

それからずっと、週3回、同じ車両の向かい側の席に座るようにしている。

お父さんの目に出会いたいから。

今日こそは、期待したけどダメだった。

でも、いつものようにお父さんの目に出会うことが出来た。
良かった。

何だか、ほっとした。

またずっと、お父さんの目に出会うことが出来るから。

オトーサン、ありがとう。

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