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短編小説『川面に映る夕日の記憶を残しておきたい』
いつものホーム、いつもの時間、いつもの車両に乗った。
いつもと違うのは、私の座っている前に、香田美月が立っていることだ。
生憎、二つ空いている席がなかったので、私だけが座った。
真白な洗いざらしのコットンのシャツと、薄いブルーのリネンのギャザースカートに、キャンパス地のデッキシューズの美月はこの間会った時とは別人のようだ。
見ているこちらまで、清々しくなる。
黒縁の眼鏡だけが同じだった。
しかし、前会った時と全然印象が違う。
心がときめくのだ。
闇雲に走り出したくなる。
『赤と黒』を読みたくなった。
今ならジュリアン・ソレルになれるかもしれない。
幸いにして、美月が正面に立っているので、窓ガラスに映し出される自分の姿を見て、いつものように現実に引き戻されることはない。
地下鉄が地上に上がり、淀川の鉄橋を古い機織り機のような音を奏でながら渡ってゆく。
私にとって淀川は一つの境界線になっている。
相反する世界の懸け橋となっている。
公と私。
今、それが切り替わって行く自分を感じる。
渡り切ると、肩書を外した本来の自分を取り戻す。
美月の白いシャツに鉄橋の斜めのストライプの影が横切ってゆく。
私はそれを古い映画でも見るように楽しんでいる。
それ以上視線を上げるのは失礼な気がしてためらった。
「支店長、綺麗な夕日です。淀川が光り輝いてすごく綺麗」
振り返って車窓の外を見た。
荒々しく燃え盛っていた太陽は、ようやく落ち着きを取り戻し、姿を消す前の一時にその熟した姿を人前に晒していた。
遠くに見える高層ビルの群れ。
青空を駆け巡る綿菓子のような雲。
朱色を帯びた太陽。
それらを支えている銀色の鱗のように小さな輝きを幾重にもたたえている淀川。
「綺麗だね。絵に描いて残して置きたいな」
「写真じゃないのですか?」
「写真は、苦手だ」
「絵は、御上手なのですか?」
「書いたことがない。もっと下手だと思う」
話の辻褄があっていないので、振り返って香田さんの顔を見上げた。
そこには、今にも吹き出しそうな香田さんの顔があった。
お互いに思わず顔を見合わせて笑ってしまう。
「リタイヤしたら、ゆっくりと油絵でも描こうと思っています。リタイヤしてからね」
写真では記憶に残らないので、脳裏に焼き付けて置きたいと言うようなことを話したかったのだけれどうまく話せなかった。
私の中では、今の淀川の眺めのように脳裏に焼き付いた映像を頭の中に残している。
この歳になってくると、その風景が沢山溜まってきている。
今の私は、それを取り出して、過去に浸るのは早すぎるような気がする。
それを取り出すことは、悪魔から最後通牒を受けることになるような気がする。
私は、まだまだ長生きをしたいのだ。
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