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短編小説『饗宴』

めっきり人通りが少なくなった。

道行く人は、誰もが伏せ目がちに、逃げるように急ぎ足で行き交う。

何かを恐れているように、何かから逃れるように、一体何処に行こうとしているのか?

街は、色を失ってしまった。

戦禍に巻き込まれた街のように、全てがグレーの濃淡で描かれてしまうようになった。

何処かで見たことのある風景。

でも思い出せない。

確か私はこの風景を見たことがある。
この鼻の奥に埃が入ったような匂い。

でも思い出せない。

でも確かに、私は嗅いだことがある。

遠くで、微かなサイレンの音。

聞いたことのないサイレンの音。

いや、何処かで聞いたことがある?

でも、思い出せない。

サイレンの音が段々と大きくなる。

思い出せない。

いや違う。

ああ、思い出したくない。

思い出したくない嫌な音。

サイレンの音が迫ってくる。

その音だけは、耐えられない。

その音だけは、耳を塞ぎたくなる。

サイレンの音が追いかけて来る。

サイレンの音が私の周りをまわり出した。

頭の中に容赦なく入り込んで行く。

嫌な音。

思い出したくない嫌な音。

息苦しい。ああ、息苦しい。

緑の回転灯が目の前に迫ってくる。

グレーの空間に、緑の光は凍りつくほどの冷淡に差し込んでくる。

音と光が、私を威嚇する。

逃げないと、音と光に囚われてしまう。

ここから抜け出したい。

逃げださないといけない。

逃げた。

走った。力の限り走った。

行き交う人は立ち止って、顔を上げる。でも私を見ようとしない。

誰も、私を助けようとしない。顔を上げた人たちは、みんな同じ顔。

白い能面。誰もが、白い能面。

同じ表情。

誰もが、うす笑いを浮かべている。

私を蔑むような薄笑い。

背筋の凍るような薄笑い。

周りの人も、私を捉えようとしているのかもしれない。

誰の助けを借りずに逃げださなければならない。

逃げなきゃ。

身体が、思うように動かせない。

恐怖が、全身の筋肉を硬直させている。

サイレンの嫌な音と回転灯の冷淡な光が、私に迫ってくる。迫ってくる。

緑の光が全身を切り刻んで行く。

耐えられない。逃げられない。

大声を上げる。その声は、サイレンの音に吸い込まれた。

両腕、両足を強い力で掴まれた。

その瞬間に、真っ暗闇になった。

色がなくなった。においがなくなった。
音がなくなった。意識がなくなった。

突然、光を浴びせられた。

目の前に、顔を半分覆い隠す黒光りするマスク、眼鏡ではなくゴーグル、頭には料理人のコック帽をかぶっている男。

白衣に染み込んだアルコールのにおいと手に持ったペンライトで、それが医師であることが分かる。

それにしても奇妙な格好をした医師だ。

ペンライトが近づく。

医師のゴム手袋をはめた生臭い指が、無理やり瞼をこじ開ける。

ペンライトの光が、その中に飛び込んでくる。

眩しい。

でも逃れることが出来ない。

照り付ける太陽にさらされて、眼球が焦がされているように感じる。

でも、逃れることが出来ない。

目をそらすことが出来ない。

脳からの指令が、眼球まで届かない。

目が動かない。

容赦ない光が、眼球をじりじりと焼き付けてくる。

逃れなければ。

顔そむけようとする。

身体に命令を出しているのにかき消されてしまう。

動かない。手も、足も、何も動かない。どうしたの?

私は確かにここにいる。

でも、もはや身体は私のものではなくなっている。

大声で叫びたい。

声が出ない。

息が喉を通って行かない。

顔をしかめることさえできない。

私は、死んでしまったの?

確かに、私はここにいるのに。

死ぬってこんなことなの。

死は心と身体が分かれてしまうだけではなく、心が悲鳴を上げるものだとは思わなかった。

照り付ける太陽から、解放された。

指の生臭いにおいとアルコールのにおいが遠ざかったので、医師が離れたのが分かった。

目が慣れてくる。

驚いた。

私がいる。

天井に鏡があって、横たわっている私が映し出されている。

一糸まとわぬ全裸。

恥ずかしいのに何も出来ない。

もっと不思議なのは、私が横たわっているのがベッドではなく、真っ白いテーブルクロスを敷いた大きなテーブルの真ん中に寝ている。

その周りを盛装した男女が取り囲んでいる。

私は、祭壇に祭られた生贄になったような気がした。

「大変お待たせしました。最近、めっきり少なくなりました無菌者の若い女性をお取り寄せしました。どうぞ、ごゆっくりご賞味してください」

イブニングドレスを着た中年の女性が、私を美味しそうに眺めまわす。

「私たちは、においも味覚も無くなってしまってけれど、どうしてなのでしょうね。無菌者の肉を食べる時だけはおいしく感じるのは。ほんと、たまりませんわ、このにおい」

タキシードを着て、頭の禿げあがったでっぷりと太った中年の男性が、全裸の私をまるで美術館の彫像を鑑賞しているかのようにくまなく視線を走らせる。

「特に、若い女性の香りは、食欲をそそりますな」

「ああら、殿方は昔を思い出して、変な気を起こされるのではありませんか」

「心配ご無用、世の中には、保菌者になって性欲を持っているものなど存在する訳はありませんぞ。食欲だけですぞ。無菌者の肉を食べるだけで十分。ほかに何も欲しいものはありません」

「さて、それではディナーを開始します。その前に、一言だけ注意事項を申し上げます。シェフが部位を説明しながら、ナイフで切り刻んで取り分けますので、各人が勝手に自分のナイフ切ってお召し上がりなされないようくれぐれお願いいたします」

アルコールのにおいが近づいてきた。さっきの医師だ。手には、大きなナイフを持っている。

この人がシェフなの。どうしようとしているの?

ひょっとして私を切り刻もうとしているの?

そして、私を取り囲んでいる盛装しているこの人たちが、私の肉を食べようとしているの?

気が狂いそうになる。この場から逃げ出したくなる。大声で叫びたくなる。

何も出来ない。

私は、天井の鏡に映し出された自分の姿をただ見ているだけ。せめて涙でも出てくれたらいいのに。

私の身体に、ナイフが入る。

不思議と痛みは感じない。

右足の太ももに見事な直線が引かれたと思うと、花が開くように肉が開いてゆく。何も感じない。切った断面のような新鮮な果実のように赤く瑞々しい。白い骨が覗く。

シェフは、右足の太ももの外側半分を切り取ると、それを大きな皿の上にのせて、丁寧にスライスして行く。

そして、トングで各自の前に置かれた皿に置いてゆく。

目の前に置かれた人は、待ちきれない様子で私の肉を手づかみで食べだした。

浅ましい。

誰も、フォークとナイフを使う人はいない。私の肉にかぶりつく。口の周りを血だらけにしながら、ナプキンに私の血は滴り落ちる。白のナプキンと真っ赤な私の血の色のコントラストが、鮮やかで美しい。

何故か、どん欲に私の肉をほおばる姿を微笑ましくもあり、うらやましく感じる。

見る見る内に、私の骨があらわになって行く。肉をはぎ取られた私は、価値のないゴミとしか見えない。それは、もはや私ではない。

「それでは、お二人様限定になりますが、最も美味とされる眼球に移りたいと思います。ご希望の方は挙手をお願いします」

ほぼ全員が手を挙げた。

「お気持ちは分かりますが、お二人だけです。困りましたな。それではジャンケンで決めましょうか」

大人たちは、子供に戻ったようにジャンケンを始めた。

右目の前に、銀色に輝く水平線が現れた。ナイフが、目の前にある。水平線は、真っ直ぐ私めがけて降りてくる。私はそれを避けることは出来ない。目を閉じることが出来ない。

水平線が消えた。

代わりに右目が銀色の光で覆われた。よく見ると、そこに私の眼球が映っている。

でも何も感じない。

耳の奥で、金属をこすり合うような音が聞こえる。

不快な音。

我慢できない。

気が付くと左目も見えなくなっている。暗闇。

漆黒の中をドロドロした血の塊が、横切るのが分かる。

頭の奧から、何か聞こえてくる。微かな音。何処かで聞いたことのある音。

段々と大きくなる。

確かに何処かで聞いたことがある。

そう、あのサイレンの音。

間違いない。

あの時のサイレンの音。

そのとたんに、頭の中で緑の光を放つ回転灯が回り出した。

不快な音と不快な光が頭の中で交差する。迫ってくる。迫ってくる。

もう耐えられない。

目が覚めた。

清々しい朝の光を浴びせられたように感じた。

今までになかったような強烈な空腹を感じる。

そして、何とも言えないような美味しそうなにおい。

気が付くと、私はベッドに横たわっている。もう全裸ではない。真白いパジャマを着て、真白いシーツが掛けられている。

「大丈夫ですか」

目の前に、顔が現れた。

私と同年代くらいの青年。

薄い緑の白衣を着て、胸のポケットに聴診器を入れているので、医師と分かる。

目が動く。

手も足も動かせる。

私は、悪夢を見ただけだったのだ。
良かった。それにしても悪い夢だった。

それにしてもお腹がすく。

「COVIT-21ウイルス検査の結果、陽性の反応が出ました。これ以上症状は悪化しないと思いますので、10日ほどここで安静にしておいてください」

さっきから、ずっと感じていた美味しそうな匂いは、この医師から発散されているのだった。

私は、薄気味の悪い笑顔を浮かべた。

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