パンデミック、極彩色の心で祝祭が見たいのは私も同じ
少し肌寒くなってきた頃に、がらりと付き合う人々や環境が変わって、これまでは自分の内側を表現するために生きてたところにずっとずっと気にしていた家族や生活のことを受け入れて、大きく生活スタイルを変えることにした。
私にとってしんどい選択だった。
これからも表現は続けるけど、いったん社会の組織に入って、看護師に戻ってルーティンワークの中で暮らすのだ。
好きな時に描いて、好きな音楽やアーティストに出会って作品を築き上げる時間はほとんど取れなくなるだろう。
コロナパンデミックが始まってから、私の中でライブやイベントで人を集めることに強い罪悪感が生まれた。
私のライブペイントをみてもらうことは、ただのエゴなんじゃないだろうか。
今、必要なことなんだろうか。
そういう想いがより強くなった。看護師は、私じゃなくてもいいと思ってやめた。
それでも、今は私みたいな人間でも看護師に戻るときなんじゃないか。
表現と生き方、生活と悪化していく世の中の不穏さの間で、葛藤が終わらなかった。
ずっとずっと考えた。何げない周りの人達の声に傷ついたり考えさせられたり、羨ましく思ったりもした。堂々とアーティスト活動を続けられる人達がすごく眩しかった。
医療機関の逼迫や状況の悪化を横目に、わたしはそれができなかった。自分のウィルスへの警戒心も疎ましかった。
常に音楽が私を動かしてきた。
出会うアーティストの音や表現が私を動かしてきた。
コロナのこの時代に、手と足と心を使ってまた仕事をする。私の中では、表現すること、絵を描くことでさえも多分、同じことだった。
収入も安定する。
父も母も助けながら生きていける。
私自身、追われる支払いに目処がつく。
その代わり、アーティストやクリエイティブに携わりたい人間として生きる時間は削られていく。
私にとって、家族はしんどいものであり大いなる安らぎであり私がアーティストである境界を脅かす存在でもあり、この選択が正しいかは分からない。
これからどうなるのだろう。
大きな真逆の変化に、私の身体はついていけるのか。心は、ついていけるのか。
心が動かされて絵筆が進む時間も、少しは取れるのか。体力がなくなってまた病んだり、突然やめたりするかもしれない。
元々、誰も私のことなんか知らなかった。
誰一人、私が絵を描いて人知れず音や表現に取り憑かれていることなんて知らなかった。
勇気を持って変化と自分を受け入れ続けた7年のあいだに、私の境界線の内側はより強固に、外側はより柔らかくなった。
自分を殺して仕事をする気はない。
それが他人と関わりを持ち、音楽と絵や踊りから離れることであっても私は私の仕事をするだろう。
この時間を、さみしく、切なく、恐怖にも思う。進んでみなくては誰にも分からない。
素晴らしい時間はあと少し。
まだ終わらせたくない。