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春のめざめ、甘やかな記憶たち

編集部より:今春、作家ヴァージニア・ウルフへの愛情に溢れたファンブック『かわいいウルフ』が出版された。編著者である小澤みゆきさんに、ウルフと香りにまつわるエッセイを寄稿いただいた。新しい季節に、甘い青春の香りが蘇る。

この春、『かわいいウルフ』という編著を出版した。もともとは同人誌として作った本の商業書籍版だ。20世紀イギリスの作家ヴァージニア・ウルフという人を特集した本で、様々な面からウルフの魅力を明らかにしようと試みている。難解と言われがちな作家だが、親しみやすい側面もあることをなるべく伝えようと、「かわいい」という言葉を用いて、作品紹介や感想文を掲載した。

私がウルフを読み始めたのは、20代のはじめ、大学生の頃だ。神保町の古本市で、『ヴァージニア・ウルフ短篇集』(西崎憲編訳、ちくま文庫)を手に取ったときの胸のときめきを、今も鮮明に覚えている。いろいろな色、音、光、そして香りが混じり合い、文章の中にきらめいて見えた。様々な感覚が洪水のように押し寄せていく様子に眩暈をおぼえ、もっと酔いたい、もっと、とページをめくっているうちに、私はウルフの底知れない魅力にとらわれていた。

「香り」や「味」は、私の人生で遅れてやってきた概念だ。特に幼少期から10代にかけて、香りにまつわる記憶というのはほとんど思い出すことができない。嗅覚は、五感の中でも最後にやってきたもの、成人してから獲得した感覚という認識が強くある。あの子の香水の香り、お線香の香り、ものが焼ける匂い──香りを感じることは、私にとってその場にある物事を自覚的に引き受けようという行為だった気がする。青春期。ウルフを読み始めた頃と重なる。だからだろうか、私の中に蓄積された香りの記憶は、どれも忘れがたい思い出ばかりだ。

思い出のひとつに、香水がある。苦手だった香水を好きになったきっかけは仕事だ。とある香水の広告のプロモーションに携わり、香りが表現や伝達手段の一つであることを学んだ。特にファッション広告では視覚による訴えがとても大きいが、その制約の中で如何に消費者に香りについて感じてもらうかを思案したことは得難い経験だったように思う。このことをきっかけに、自発的に香水を買うようになった。

いくつか香水を買い集め、これだというものに出遭った。Diorが出している「ミス・ディオール」というラインのなかの、シェリーというオード・パルファムだ。この香水はトップノートがやや甘ったるいのだが、その後さわやかな香りに変わる。苺やキャラメルの香りは、一吹きするだけで私を乙女にしてくれる。とても美しい香りだ。

だが悲しいことに、シェリーは廃盤になってしまった。大人の女性が常用するにはガーリーすぎるのかもしれない。後継の新しいミス・ディオールを常用しながら、残りのシェリーの瓶を、人生の大切なときに身につけるようにしている。その瓶は、20代前半から一緒に時間を過ごしてきたウルフの作品たちと同様に、作業机の手の届く場所に置いてある。

ヴァージニア・ウルフは20世紀イギリスを生きた作家だ。「意識の流れ」と呼ばれる文学的手法を駆使し、新しい小説の流れを切り開いたことで知られる。また小説だけでなく、評論『自分ひとりの部屋』はフェミニズムの古典として知られる。「かわいい」側面だけでなく、多様な顔を持つ人であった。

その影響は現代、文学だけにはとどまらない。作品が演劇やオペラ、バレエになるなど翻案が続いているほか、ファッションやアートの領域でも取り上げられることが多い。作品をモチーフにしたネイルや香水も存在している。彼女の言葉は本という媒体を超えて広がり、私たちを捉えて離さない。

ウルフの小説には、花がたびたび重要なモチーフとして登場する。長篇小説『ダロウェイ夫人』は、主人公クラリッサ・ダロウェイが花を買いに出かけるところから始まるし、短篇「外から見た女子学寮」では、アンジェラという女子学生がユリの花に例えられる。また人が集まる場面が多いのも特徴で、食事やパーティの場面が印象的に使われている。そんな場面で重要になってくるのが、やはり香りだ。

実際、ウルフの小説には、「匂い」を通して人やものの様子を描写しようとする場面がある。例えば前述の『ダロウェイ夫人』が花を買うときの場面。

この花の美しさ、かぐわしさ、この色彩、好意と信頼を寄せてくれるミス・ピムの存在が、あたかもひとつの波となって彼女を覆い、憎しみというあの怪物を、もろもろの思いと一緒に、押し流してくれたかのようだった。
(『ダロウェイ夫人』、丹治愛訳、集英社文庫、29ページ)

それから、デビュー作『船出』には、人のにぎわいが香りとともに描写される。

サンタ・マリーナの賑わいは、ほとんどいつも、夜の暖気と花の香りで心地よく、灯火がともされる頃から始まる。
(『船出(上)』、川西進訳、岩波文庫、169ページ)

花だけでなく、食べ物の匂いもまた重要な役割を果たす。人が集まる夕食の場をウルフはこんなふうに描く。

マルトがちょっぴり勿体つけた手つきで茶色の大鍋の蓋をとると、オリーヴと油と肉汁の混ざりあったとびきりの芳香が立ちのぼった。
(『灯台へ』鴻巣友季子訳、池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅱ-01、河出書房新社、128ページ)

このように、ウルフの文章における香りは、単なるモノの描写に留まらない。その役割は登場人物をさらに思い出の中へと没入させたり、その場の華やぎを表現したりすることにある。ふとした意識の中で記憶を思い出される/または、あとから思い出すための装置として、テキストの中で香りが機能している。その記述は決して多くはないが、ウルフの中でも香りは特別な感覚だったのだろうと感じる。

自分も、ウルフのように、ものすごいうねりでもって、感じたことを表現できたら、と思うことがある。言葉の密度を結晶のようにして、ガラス細工を練り上げるように文章を紡いでみたい。近づくことはできなくても、せめて、彼女が感じたように私も世界を見てみたい。香水の香りを愉しみながら、そんなことを今思っている。

最後に。前述した『灯台へ』の料理の香りをどうしても再現してみたくて、自分も同じ料理を作ってみた。その過程は『かわいいウルフ』の中に記したので、ぜひ読んでいただければ、と思う。

小澤みゆき(おざわ・みゆき)
1988年生まれ。会社員。2016年より同人活動をはじめる。2020年には出版プロジェクト「海響舎(かいきょうしゃ)」を立ち上げ、文芸同人誌『海響一号 大恋愛』を発表。ほか、『新潮』『文學界』『しししし』『Rhetorica#03』といった雑誌にエッセイ/書評/コラム等を執筆している。

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編集協力:OKOPEOPLE編集部

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