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ものを作る家族と、喪失の香り

編集部より:シンガーソングライターのしずくだうみさんにエッセイを寄稿いただきました。もの作りの家に育ち、やがて表現活動へと導かれていったしずくださん。お香のかおりは、そんな家族を喪う記憶とともにありました。お香にふたたび出会い、自身のもの作りと家族の関係を振り返った記録。

お香の匂いが苦手だった。

私が産まれた時、曽祖母二人が生きていた。どちらも父方で、頻繁に顔を合わせるわけではなかったが、曽祖母などとうに亡くなっているのが世間では普通だと認識してからは、なんとなく誇らしい気持ちになっていた

しかし、生き物には必ず死が訪れる。小学2年生の時、片方の曽祖母の危篤の連絡が入り、家族で病院にお見舞いに行った。ひ孫が沢山いる曽祖母に認識されていたのかすらよくわからないし、会話ができたかどうかも記憶が怪しい。白い壁の病院だったような気がする。ほどなくして曽祖母は亡くなった。

葬儀に出席するため、私たち家族は電車とバスを乗り継いで、葬儀の会場へと向かった。どんな季節だったか、どんな会場だったか、どんな人がいたか、どんな形式の式であったか、そういった類のことを全然覚えていない。曽祖母は団地に住んでいたから、団地を父が喪服で歩いていたことはぼんやり覚えている。

そんなあやふやな記憶の中で、唯一強烈に残っているのがお香の匂いの記憶だった。ビジュアルイメージは記憶から消え去っているのに、会場で焚かれていたお香の匂いが今パソコンに向かってこの文章を打っている私の鼻の先にお香が置かれているかのように再現される。そしてもうひとつ覚えていることは、とにかく泣いたことだ。それほど交流があったわけでもないのに、生まれて初めて人の死を目の前にした小学2年生は泣きに泣いた。目が腫れるまで泣いた。

今から考えると「死」というものに過剰反応していただけなようにも思うが、永遠に続くように漠然と思っている人生が終わってしまうという現実がショックだったのは間違いない。それらを整理するために泣き続けたと考えると、曽祖母との交流の深さと相関性がなくても不思議ではない。

葬儀が終わり、親族一同で団地の部屋へと向かった。物が多いが散らかっているわけではなく、普通の老人の部屋だったような気がする。曽祖母は絵を描いたり、小物を作ったりする人だった。おそらく趣味で作っていたのだと思うが、趣味にしては同じ規格の物がきちんと棚に並んでいた。形見として、高さ20cm弱ほどの3段の引き出しをもらった。和紙で綺麗に整えられ、取手の部分は金具でできていて、丁寧に作られたことがよく分かる物だった。

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その後、曽祖母の息子にあたる祖父の家に遊びに行った時、団地の部屋で見て記憶がある物の他にも色々制作していたことを知った。キャンバスに描かれた絵画や、河原にありそうな石に絵が描かれたものがあった気がする。偶然なのか必然なのか、祖父母は陶芸家で、作品を飾ってある部屋に曽祖母の作品も置いているようだった。

当時の私はぼーっと生きているだけの小学生だったが、石に絵を描くの楽しそう! と思い、河原で石を拾って絵を描くのを真似して遊んだ。その当時はシンガーソングライターのシの字もなかったが、なんとなく曽祖母に対して、物を作る人としての尊敬の気持ちがあったように思う。そして、祖父母が陶芸家であり、さらに父もCG(コンピューターグラフィック)を作っている人であることを、幼い私はなんとなく面白がっていたような気がする。

「あの時」に引き戻される香り

曽祖母がいなくなったことをふいに思い出して悲しくなることはあっても、数年も経てばさすがに泣くことはなくなる、と、思っていた。

中目黒あたりだったか、家族で出かけた時、おしゃれな雑貨屋を見かけ、入ってみたくなった。ガラス張りのドアを開けた瞬間、むわっとお香の香りが私を包んだ。一瞬にして数年前の忘れていたはずの死の記憶が蘇った。

可愛らしい小物たちが棚に並んでいるのに、もうそこにいることができなかった。白い病院の壁、団地を歩く父、そして形見の引き出し。一気に思い出されたそれらを振り払えず、退店してもしばらく気が動転していた。強烈な香りによって一気に「あの時」に引き戻されることを初めて知った。

その日を境に「お香が苦手」と人に伝えるようになった。煙草ほどではないが、お香は香りが強いため、事前に「焚いてもいいか」と尋ねられることが多く、しばらく避けて過ごすことができた。それから曽祖母のことを完全に思い出さなくなったわけではないが、お香によって引き戻される強烈な体験に比べたら、全てが些細なことに思えた。

中学2年生の時にもう一人の曽祖母が亡くなり、さらにその後を追うように曽祖母にべったりだったおじさん(曽祖母の息子、祖母の兄)が亡くなった。いずれの葬儀でも当然のようにお香が焚かれていた。特におじさんとは結構交流があり、私と妹をとても可愛がってくれていた。私たちも懐いていたから当然すごく悲しかった。それでも、以前のように引き戻されるほどの気持ちにはならなくなった。悲しみの匂いには違いなくても大丈夫になったのは時間の経過のせいなのか、単純に私が少し大人になったからなのかはわからない。

身体が大きい印象があったおじさんが、曽祖母の死の後に闘病し、最終的に棺桶の中にちんまりとおさめられているのを見た時は、闘病と死の残酷さを見せつけられているような気がしてつらくなった。祖母が「痛くて苦しいのから解放されたんだよ」と言っていて、なんとなく楽な気持ちになった。祖母は私たちに悲しみの整理の仕方を教えると同時に、自分の中でも納得しようとしていたのだと、大人になると言語化して理解できるようになった。

何かに突き動かされるように作り続けて

──さらに成長して高校生になり、軽音楽部に入部した。バンドをやるための部活である軽音楽部に入ったのに、あろうことか私はバンドが組めなかった。バンドが組めないとぼやいても仕方がないと思い、軽音楽部所属のシンガーソングライターとして活動を始めることになった。

小学生の頃から歌うことは好きだったし、作詞作曲の真似事をしていたが、わからないなりにコードを勉強して鍵盤を弾いて歌うようになったのは高校生になったタイミングだった。

そして、初めてきちんと作った曲が軽音部のコンテストで入賞したことで私はまっとうな人生を歩む気をなくし、シンガーソングライターというつらく厳しい道にずぶずぶと足を踏み入れていくこととなった。

と、いうのは余談だが、なんとなくこの時期から、もの作りの家系に生まれてしまった以上、作ることからよくも悪くも逃れられないのだと悟り始めた。私が曲を作る動機で一番多いのは負の感情が発生した時であり、自分を癒しつつ人にも聴いてもらっているような感覚でいる。

もちろん今は依頼されて楽曲を作ることもあるしその時は負の感情で作っているわけではない。明るく陽気な曲も作って納品できるし、自分で制作しているだけでは出会えない自分を引き出してもらえたような気持ちになり、単純に楽しんで作っている。しかし、納品した後になんとなく空っぽになったような気持ちになると、根底にあるのは決して明るいものではないのだということを認識する。

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曽祖母、祖父母、そして父がどういう経緯でそれぞれ違う物であれど何かを作るようになったのか、実はよく知らない。少なくとも祖父母と父は、私のように負の感情が原動力になっているようには見えなくて、色々と文句を言いつつも楽しむことができているように思う。

ひょっとしたら負の感情に突き動かされているのかもしれないが、私もはたから見たらどう見えているかなんてわからない。ただひとつ共通していそうなのは、「ものを作ったり表現することをやめられない」ということである。

老いともの作り

祖父母は、祖父が認知症になったことにより窯を潰し、慣れ親しんだ家を売り払い、何かあった時にもすぐかけつけられるようにと親族の家の近くに引っ越した。

祖父は認知症が進行し、初孫である私のことも長男である父のことも完全に忘れ、さらには妻である祖母に「結婚してるの?」と尋ねるような状態のため、ものを作るのはかなり難しそうだが、なぜか囲碁はできるらしい。祖母によると若い頃に子供囲碁教室で先生をしていたらしい。博識な祖父は、勉強したであろうことをどんどん忘れていく中で、囲碁のルールだけははっきり記憶している。人の脳の仕組みとは一筋縄では説明できないものであることを実感する。

祖母は祖父の介護をしつつも地域のコーラスグループに参加し、歌っていて楽しいということを、電話した時に教えてくれた。私にいつも「歌頑張ってね」と言ってくれる祖母もまた、歌うことで自分を癒しているのだと思う。祖父の認知症が日に日に進行する中でも、祖母は弱気になっている印象がない。

私なら「この人すぐ忘れちゃうのよ!」と笑っていられる気がしないので、もしかしたら色々考えていつつも弱音の吐き方がわからないのではと思い、「デイサービスだけじゃなくてショートステイ(宿泊の介護サービス)も使って、ひとりの時間をちゃんと作ってね」と声をかけてみると「そうよねえ」と返ってくるが、祖母の本音はわからない。

陶芸をしていた頃の話がよく話題にのぼるあたり、祖母にもものづくりの魂というかプライドのようなものがまだ垣間見える。手がうまく動かなくなってきたと話す声はどこかさみしいように思えた。

父は、不況でCGの仕事が減って違う仕事をしたりしつつも、LINEスタンプをせっせと作って販売したり、なぜか最近は粘土で指輪の型を作ることに腐心している。父は単純に会社勤めをするのがつらいという気持ちが強いのだとは思うが、夜な夜な指輪を削っているのを見ると、この人もものを作るのが好きなのだと思う。

ふたたびお香の記憶に触れて

いつから「大人」になったのだろう。あるいはまだなっていないのだろうか。いくつかの通過儀礼を経たり、食べられなかったものが食べられるようになったり、大人になったと言える出来事は皆それぞれあるだろう。

私はそれらの出来事の中に「お香の匂いが苦手ではなくなった」を追加したい。悲しみの象徴として脳の片隅に鎮座していた香りの記憶そのものは薄れていないことは、こうしてすらすらと詳細を文章に書けるあたりによく現れているだろう。

親戚や友人・知人が亡くなるのは曾祖母が初めてで、それからの人生で幾人かの人間を見送ってきた。いわゆる大往生と言われるような人生から、突然の同年代の過労死まで様々だが、それぞれに違った悲しみがあることを知った。そして、必ずしも悲しみが訪れるばかりではないことも知った。

遺品をのこし、祖父母・父、そして私への繋がりを認識させてくれた曾祖母の存在はもちろん大きかったが、その経験があった上で高校で倫理を勉強し、さらに大学に進学して文化人類学を学ぶと、大切な存在を失った悲しみと向き合う時に世界中の宗教が残された人々の気持ちを共有・整理することに寄与していることを知ることができた。「お香の記憶」があったことで、それらを単なる知識としてだけでなく、自分自身の問題として考えて処理できたように思う。

葬儀の時に焚くお香は、昔は異臭を隠すといった実用的な目的が多かったのだろうが、衛生管理が進んだ現代ではそういった目的はほとんどなく、亡くなった人と仏様への供物という宗教的な意味合いが強いだろう。残された人たちで焼香をし、亡くなった人に話すことで気持ちを整理する──そういうものだと客観的に理解することで、自分自身の過去を冷静に分析できるようになり、香りと悲しみを切り離して考えることができるようになった。

今回記事を書くにあたり、いただいたお香のサンプルを少し肌寒い日のベランダで焚いてみた。自分でお香を焚いたことがほとんどなかった私にとって、慣れないライターで火をつけている状態すら新鮮に思えた。特に何かするわけでもなく、お香から立ち上がる細い煙が揺れるのを眺めたり、風向きによって香りの濃淡が生まれるのを感じるその時間は、これまでに書いたような過去の記憶を振り返るのにちょうどよく、それでいて雑念やつらすぎることは排除してくれているような、ゆるい魔法がかかっているように感じられた。

【プロフィール】しずくだうみ
東京のシンガー・ソングライター。これまでに2枚のアルバムと5枚のミニアルバムを発表。現在はライブ活動はお休み中。自主レーベルで、自身のリリースのほかにアイドルユニットsommeil sommeil (ソメイユ・ソメーユ)の企画運営や、アイドル・シンガー・Vtuber・演劇などに楽曲提供も行なっている。https://szkduminfo.tumblr.com/

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編集協力:OKOPEOPLE編集部

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